なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書よる説教(68)

    マルコ福音書による説教(68) マルコによる福音書16章-20節、
              
・イエスが死んで葬られたのは、金曜日の夕方近くだったと言われています。ユダヤでは、金曜日の夕方から土曜日の夕方までは安息日です。一日は夕方からはじまり翌日の夕方までということになっています。ユダヤ人の社会では安息日は、特別の場合を除いて、一切の労働は禁じられていました。ですから、イエスの葬りは、安息日のはじまる間際に、あわただしくすまされたと思われます。イエスの死が予測できなく、前以て死者のからだに塗る香油の用意もなかったのでしょうし、時間的な余裕もなかったのでしょう。イエスの死体は、当時の習わしにしたがって、からだに香油も塗られずに、埋葬されました。女たちは、三日目の朝、安息日が終わった翌朝に、香油を買い求めて、イエスのからだが納められた墓に、いそいそとやってきました。「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合」いながらやってきました。墓は、横穴に造られた洞窟のようになっていて、入り口は大きな石でふさいであったからです。その入り口の石を転がさなければ、墓の中に入ることはできません。女たちだけの力では、とても石を転がすことはできなかったのでしょう。それでも女たちは、イエスの埋葬された墓にやってきました。

・既に死者になってしまったイエスに女たちができることは、あわただしく葬ったためにイエスのからだに塗れなかった香油を塗ることでした。そのようにして、イエスを丁重に葬り、彼女等のイエスに対する敬愛と惜別の想いを表すことでした。死んでしまったという事実を前に、生きている者が死者に出来ることは、精一杯の葬りをすることです。そのことの中に、死者に対する生きている者の想いが現れてきます。

・私たちの場合でも、身近な者から死者が出たとき、そこで周囲の者がどういう態度を取るかによって、生きていた時の人間関係が現れます。心のこもっていない儀礼的なだけの葬儀もありますし、故人が生前どんなに深く周囲の者の心をとらえていたかが偲ばれる葬儀もあります。若い人の死の場合には、両親の愛情の深さと期待の大きさをまざまざと見せ付けられることもあります。処刑者の場合はどうでしょうか。心情的には同情していても、人々の目を気にして、自分たちを守るために、何もしないで見捨てるということもあるでしょう。イエスの弟子たちの場合のように。

・しかし、死者とその死者を葬る者たちの関係がどのようなものであっても、死という壁は越えられません。女たちは、精一杯の想いをもって、イエスの埋葬されている墓に来ましたが、彼女等のそうした行為は、たしかにイエスを殺害した敵対者たちやイエスを裏切り、逃亡した弟子たちのそれとは違います。誰もロ-マやユダヤの権力を恐れて、来ようとしなかった墓にきたということは、それ自身美しいことです。しかし、その美しさは、暗やみの森の中に咲く一輪のユリの美しさに譬えられるでしょう。周囲の暗さを際立たせこそすれ、暗やみを突き破る美しさではありません。死者をどのように丁重に葬ろうが、墓をどんなに立派に飾ろうが、死は死であり、それらの人間の行為が死を越えることはできないからであります。美しく飾る人間の行為は、どことなく空しく思われます。私たちは、そのような死の手前で、死によって全てが無と帰する生活を、毎日営々として築いているのではないでしょうか。

・ところが、女たちが墓で出会った出来事は、死者を葬るためにやってきた女たちの慣習的な行為を全く必要としなくさせる出来事でありました。墓の入り口をふさいでいた「石は既にわきへ転がしてありました」。そこに「白い長い衣を着た若者」がいて、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」と、女たちに語ります。その時、彼女等が準備してきた物と、彼女等が今為そうとしていた行為とは、対象を失ってしまいました。復活のイエスの前に、全く対象を失ってしまう行為というものがあるのであります。この事実は、私たちを不安にさせないではおきません。私たちが日常の生活でなしていることを、復活のイエスによって吟味されるとき、何が残るだろうか。何も残らないのではないか。死によって一切が無になる行為を、それと知りながら、スタ-トしてしまった以上ゴ-ルまで走らなければならないから、…仕方がないのだろうか。

・この世の生活には、何かこの得体の知れない死の力が支配しているのではないか。ニヒリズムは私たちを孤立させ、結局人間はひとりぽっちなのだという想いをいだかせずにはおきません。そしてこの力が私たちの生きざまをも左右するのです。

・イエスの復活は、私たち人間の経験的世界の中での、だれもが認識可能な出来事ではありません。それは強く信仰を求める出来事であります。見ないで信じる者は幸いであるというように。私たちが人間の知見に基礎を置いているかぎり、イエスの復活は私たちの視界からは消えたでしょう。イエスの復活は、女たちの行為=人間の可能性(善きもの)をよみするものとして終わるのではなく、むしろ人間の不可能性(罪)~逃亡、裏切り~を服従に変える力であります。死の手前で、死がすべてをのみ尽くす無の力であるが故に、全てが相対的にしか考えられない私たちに、信仰は復活のイエスの光の中で歩むことを強いる。根本的な方向転換を求める出来事であります。

・マルコによる福音書をず-と学んできましたが、今復活のイエスとの出会いを通して、もう一度福音書の発端からのイエスの出来事を読みなおしてみると、新しい光が投げ掛けられます。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(1:15、)というイエスの宣教を示すコトバは、イエスの復活によって新しい招きとなります。イエスが、ユダヤ人社会の指導層から一貫して受け入れられなかったにもかかわらず、貧しい人たち、罪人や取税人たちと交わり、病める者、悪霊につかれた者をいやして、町々や村々を巡り歩いたことが、復活の光の中で把らえ直されるとき、死ではなく、神の生命が私たちを支配していることに気付かされるのです。

・その時、地上の生活は、死を待つ生活ではなく、神を待つ生活に変わります。私たちは、日々営々と生きているわけですが、人間としての生活を維持するために、この世の組織の中で働いています。しかしそこではいつも旅人であり、寄留者であるという認識を持つ必要があります。神の国の実現成就の途上を生きる旅人、寄留者なのです。イエスの復活は、再び来たりたもうイエスを待つ人間へと私たちを招いています。待つ生の模範は、地上のイエスの生涯において全き形で示されています。そのようなイエスの荷を共に負う者として、私たちは復活のイエスと共に歩みたいと思います。

・そのような旅人、寄留者としての生きる私たちにあって、命と人の生活を根本的に破壊する可能性のある原発再稼働もオスプレイ配備も容認することはできません。

・昨年4月から船越教会の牧師として働くようになってから、礼拝説教のテキストはマルコ福音書を扱ってきました。マルコ福音書は今日で終わりますので、次回から使徒行伝(新共同訳では使徒言行録)を扱います。イエスの死後イエスの復活・顕現を通して誕生した最初期の教会の歴史を思い巡らしながら、最初期の教会の人々の生きざまとその信仰からメッセージを受け取っていきたいと思います。