なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(79)

         船越通信癸沓后  。横娃隠嫁10月21日    

・14日の日曜日は礼拝後残れる人でお茶を飲み懇談をして散会しました。皆さんが帰る頃雨が少し降り出しました。私はしばらく教会に残り、署名が一杯になっている署名用紙を送り先に郵送する作業や、11月4日(日)の永眠者記念礼拝への案内発送作業などをして、午後4時頃船越教会を出て鶴巻に移動しました。その頃も少し雨が落ちていました。

・15日(月)から17日(水)まではどこにも出かける必要がなく、鶴巻で比較的のんびりと過ごしました。ただ次の週には教団総会があり、私の裁判支援会の集会も予定されていますので、特に支援会の集会のための準備をしなければなりませんでした。今度の集会は教団総会期間中に行われ、私の裁判の二つの重要な課題であります、人権侵害を裁判で問うことと裁判を通して教団の強権的な体質を問うことからすると、後者の課題が中心になります。そのために裁判での文書のやりとりの中で現れている教団の問題を、今までの裁判の経過を踏まえてまとめてみることにしました。教団の問題の部分は以下の通りです。

・教団執行部の主張:岡田弁護士が言われるように、この裁判は原告と教団の争いではなく、原告と教団執行部の争いである。現在までの段階でこの裁判で明らかになっている現教団執行部の主張は、以下の4点にまとめられる。
a)政教分離を根拠としてこの裁判は宗教教団への国家の介入である。宗教集団の自律権の主張。
b)戒規は愛を持って悔い改めを求める教会の訓練規定であって、世俗社会の懲戒処分とは異なる。
c)戒規の申立ては戒規執行への契機に過ぎず、申立てがなくても教師委員会は戒規執行が出来る。
d)教師委員会の戒規決定、常議員会の審判委員選任、審判委員会の決定のすべては、会議制に則った多数決による決定であってすべて正当である。

・a)については、政教分離という近代社会の原理の一つを引き合いに出して、宗教教団の自治・自律権を主張することによって、今回の私に対する戒規免職処分のような不当な行為も司法が関与する問題ではないと突っぱねているのです。この問題は、この論理で行くと、組織内で起こる人権侵害をはじめ不当な行為を訴えるところがどこにもないということになります。その組織に訴えても非民主的な組織である限り、その訴えが正当に取り上げられないわけですから。実際こういう問題は、特に宗教教団の中には相当起きているのではないかと思われます。

・私が一番頭にきているのはb)です。「戒規は愛をもって悔改めを求める訓練規程」というところです。本当にそうなら納得できないこともないのですが、正直なところ私が戒規免職処分を受けるまでに「愛を持って悔改めを求め」られたことは、一度もありません。何しろまともに私と話し合うことをせずに、教師退任勧告を突き付け、戒規免職処分という組織決定を教団は下しただけだからです。話し合いということからすれば、第36回合同後22回教団総会で常議員会による戒規申し立てを無効とする44号議案の可決後に、当時の山北議長がプライベイトに私と紅葉坂教会役員会と話し合っただけです。その時山北議長は、「今後戒規をちらつかせて脅すことはしないから、紅葉坂教会も未受洗者陪餐の旗を振らないでもらいたい」と言いました。紅葉坂教会役員会はそれを了承しましたが、山北さんの約束はどうしても私を戒規にかけるのだという強硬派によって押し切られてしまいました。

・c)も大変怖い問題に繋がります。中世の宗教裁判に等しい役割を教団の教師委員会が持つことを意味するからです。教師委員会は査問委員会を兼ねるということです。誰からの申立てがなくても、教師委員会はこの人はと思う教師を戒規にかけることができるということですから。この理解は戒規申立てを個人でも可とした信仰職制委員会の答申を常議員会で問題にした時に、既に出てきている意見です。組織は条文によってというよりもコンセンサスによって運営される面が大きいと思いますが、教団が教師委員会を置いた時に、教師委員会に申立てが誰からもない場合でも教師を戒規処分できる権能を与えたとは、とても思えません。

・d)は、民主主義の原則では少数意見を大切にすることを前提とした多数決だと思うのですが、教団のこの論理からしますと、多数決で決めれば何でも可ということになります。現在の教団は多様性を認めませんので、多数決による一部の立場の人たちの教団独占という状況になっています。これは民主的な集団とは言えません。

 たとえば、教師委員会は第36合同後22総会期選任の段階で、7名の委員の内5名は私の戒規免職ありという立場の委員が選任されていました。2名は聖餐についえの考えは私と同じではないと思いますが、戒規免職はあり得ないという立場でした。教師委員会で私の戒規免職処分を決める時、その2名の委員は教師委員を辞任しています。審判委員も常議員会で選任されえる時、候補者を指名した山北議長は私の立場を支持する2名、反対する2名、中間から1名と言って5名を推薦しました。中間の人は未受洗者陪餐には反対ですから、結果は最初から明らかです。3:2で審判委員会の結論は、教師委員会の私への戒規免職処分は妥当というものでした。すべて最初から結論が決まっていて、形を整えるだけです。議論によってお互いが変わり得る関係がなければ、会議制の空洞化は免れません。現在の教団の会議は正に空洞化そのものです。

・17日(木)には聖書研究会がありました。上村静さんの『旧約聖書新約聖書』を扱っていますが、今回は旧約の「諸書」の部分を一緒に読みました。上村さんは「コヘレトの言葉」を評価しているように思われます。信仰には熱狂主義的なものやドグマ、イデオロギーによってありのままの現実から遊離させる傾向が強いと思いますが、コヘレトは冷厳な現実を直視して暴力的ではないというのでしょうか。