なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

復活節礼拝説教

          復活節礼拝説教、ヨハネ福音書20章機18節
        
・今日はイースターです。主イエスが死から甦った日です。教会は、この2000年来、イエスの誕生を祝うクリスマスと、最初の教会の誕生をもたらした聖霊降臨日(ペンテコステ)と共に、この主イエスの甦りの日であるイースターを大切に祝ってきました。今年もそのイースターの日を迎えて、私たちは今日、主イエスの復活を想い起すためにこの礼拝に集まっています。

・最初に、先ほど司会者に読んでいただきましたヨハネ福音書20章1節から18節までに描かれていますイエス復活物語を振り返ってみたいと思います。このヨハネ福音書のイエス復活物語は、他の福音書の同じようなイエス復活物語と比べて読んでみますと、マグダラのマリアという一人の女性が、最初の復活のイエスの証言者となっているという点で際立っています。マグダラのマリアは、ヨハネ福音書だけではなく、他の三つの福音書のイエス復活物語の中にもその名前が出ていますので、四つの全ての福音書のイエス復活物語に登場して来ています。しかし、ヨハネ福音書以外では、個人としてではなく、複数の女性たちの一人として登場しています。このヨハネ福音書だけは、マグダラのマリアが、たった一人だけで登場しているのです。

・なぜヨハネ福音書だけが一人なのかということは、よく分かりませんが、ヨハネ福音書では、女性が重要な場面で登場する物語が、ここだけではなく、幾つかあります。

・例えば4章のイエスが旅の途中で喉が渇いて立ち寄ったサマリア地方のスカルの井戸で、水を汲みに来たサマリアの女とイエスとの出会いの物語があります。この女との出会いの中で、イエスの口からヨハネ福音書が語らんとする中心的なメッセージが告げられます。この物語の中で、イエスサマリアの女に、「(井戸の)水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:13,14)と語られています。また、その後の問答の中で、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(4:24)とイエスが語り、「女は言った。『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。』イエスは言われた。『それは、あなたと話しているこのわたしである。』」という場面が描かれています。

・11章では、ラザロの復活の物語がでてきます。この物語の中では、ラザロの二人の姉であるマルタとマリアが登場しています。ここでも、マルタとイエスの問答の中で、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(11:25,26)というイエスの重要な言葉が語られています。

・このようにヨハネ福音書では、他の福音書とは違って女性がイエスの証言者として描かれている物語が散在しているのです。古代ユダヤでは、女性や子どもは証人として認められてはいませんでした。そういう中で、ヨハネ福音書に女性の証言が重要な場面で出てくるということは、ヨハネ福音書の教会共同体の中では女性が重要視されていたことを意味するでしょう。

・さて、ヨハネ福音書のイエス復活物語に戻りますが、このところには内容的に二つの物語が一緒になっています。一つはペテロといわゆるイエスの愛弟子の二人が出てくる3節から10節までと、マグダラのマリアが出てくる1,2、11-18節です。そして全体としてはマグダラのマリアがイエス復活の証人となっています。

マグダラのマリアによって、イエスの埋葬された墓の入り口の石がとりのけてあり、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と告げられて、男弟子の二人はイエスが埋葬された墓に走ってやってきます。(ここに「わたしたち」とあるのは、おそらくヨハネは共観福音書の復活物語と同じ伝承を用いていたと考えられますので、共観福音書では、マグダラのマリアだけでなく、この場面は複数の女性たちが登場しています。そのことが、ここの「わたしたち」に反映されているのではないかち考えられます。)最初にイエスの愛弟子の方が墓に到着し、身をかがめて墓の中をのぞき、イエスの遺体を包んでいた亜麻布だけが墓の中に置いてあるのを発見しますが、墓の中には入りませんでした。

・後から来たペテロが、先に墓の中に入り、亜麻布だけでなく、亜麻布が置かれた場所から離れたところに、イエスの頭を包んだ覆いも置かれているのを発見します。「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」(8節)と記されています。ここに「信じた」と言われていますが、ここでの「信じた」はイエスの復活を信じたというのではなく、一応空虚な墓を確認したということだったのでしょう。その後、ヨハネ福音書のこの記事は、このように記しています。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った」(21:9,10)と。この記述からしますと、二人の男弟子は、ただ空っぽの墓を「そうか」と確認しただけで、自分たちの家に帰って行ってしまったのです。彼らは、まだ復活の主イエスとの出会いを経験していません。イエスの遺体が納められた空っぽの墓は見ましたけれども、あたかも何事もなかったかのように、家に帰って行ったのです。

・イエスの復活を信じるということは、空虚な墓という一つの事実の確認ではありません。自分自身の中で死が命に飲み込まれたという決定的なメッセージを主体的に信じるということです。二人の男弟子は、この段階では、まだそのことを体験していないのです。一方、マグダラのマリアは、そうではありませんでした。

・「マリアは墓の外に立って泣いて」いました。「泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見え(まし)た。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座ってい(まし)た。天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言い(まし)た。『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません』」(11-13節)と。この泣いているマリアは、イエスが殺されたという、死の現実に悲しんでいたのです。悲しみの極みは、死の現実です。私たち人間には、ただ呆然と立ちすくむ以外にありません。東日本大震災地震と大津波によって家族や友人を失った人たちも、マグダラのマリアと同じ経験をしているのではないでしょうか。

・そして、この時のマリアの最大の関心事はイエスの遺体にありました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」というマリアの全く同じ言葉が、2節、3節にあります。そして内容的には、15節もそうです。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」という復活の主イエスの問いかけに、マリアはイエスを園丁と間違えて、このように答えています。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります」と。

・このマリアの三つの言葉から、この時の彼女の関心事が失われたイエスの遺体にあったことが分かるでしょう。安息日が始まる前に、あわただしくイエスの遺体を葬ったために、マリアは、もっと心をこめて丁寧にイエスを葬ってあげたいという気持ちでいっぱいだったのでしょう。このマリアの状況は、東日本大震災の大津波でさらわれて亡くなった方の遺体が見つからないで、それを捜し続けている遺族の方々の立場に近いのではないでしょうか。愛する者の遺体を捜すということでは、かつての日本のアジア侵略に担ぎ出されて、中国で、東南アジア、或いは海上で乗っていた船が撃沈されて戦死した兵士の遺体を捜す遺族も同じでしょう。イエスの遺体にマリアの目が注がれていたとき、マリアは過去に縛られていたのではないでしょうか。そして愛する者の死という現実に圧倒されて、泣くほかなかったのでしょう。

・そのような死という究極の悲しみの現実に打ちひしがれているマグダラのマリアに、復活した主イエスが声をかけます。「婦人よ」という一般名詞による呼びかけでは、イエスと分からなかったマリアですが、イエスが「マリアよ」と固有名詞でよびかけたときには、すぐイエスと気付いて「ラボニ」(先生)と言って、イエスにすがりつこうとします。生前のイエスとマリアの親しい関係が再現されようとしたわけです。それを静止して、イエスはマリアに「わたしにすがりつこうとするのはよしなさい」と言います。そして、イエスは、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と語って、そのことをマリアに弟子たちに伝えるように命じます。

・「復活とは、なつかしい過去がそのまま連続的に現在によみがえることではありません。過去との断絶、新しい方向転換をしめす出来事なのです。過去に向いていた私たちの視線は、ここで大きく未来へと転換せしめられます。イエスの復活がもし、死者の世界からの帰還であるなら、そのような生命は、過去とのつながりが切れいていないので、またいつか終わらなければならない地上的生命の延長に過ぎません」。

・しかし、復活はむしろ、未来に向けられた新しい生命の始まりを意味しています。マグダラのマリアは、そのようなイエスの復活の証言者として弟子たちの所に行って、「『わたしは主を見ました。と告げ、また,主から言われたことを伝えた』のです。

・私は、このマグダラのマリアのことを思い巡らしながら、一人の女性のことが浮かんできました。私もたまに参加している国会前辺野古新基地建設反対座り込みに来ておられる84歳になるSさんという方のことです。30年以上反原発の運動をなさってこられ、2年前の東京電力福島第一原発事故を起こさせてしまったことに、深い悲しみと怒りを抱えて、今も「核も戦争もない世界を!、すこやかな未来を願って」と、ビラまき、座り込み、国会請願と精力的に運動を続けておられる方です。この方の中には、キリスト者として「未来に向けられた新しい生命の始まり」を意味するイエスの復活信仰があり、死に打ち勝つ神の命への信頼に促されて、平和運動へと押し出されているのではないかと思うのです。そういう意味で、イエスの復活の証言者としてのマグダラのマリアに連なるものを感じているのであります。私たちもまた、この時代と社会の中で、自分に与えられて課題を担いつつ、未来に向けられた新しい生命の始まりとしてのイエスの復活の証言者として立つことができますように、神の助けと導きを祈り求めたいと願います。