控訴審第1回期日決定!
【控訴審第1回期日】が、6月3日午後1時15分~に決まりました。
・ 裁判所からは東京高等裁判所822号法廷と言ってきていますが、現在弁護士を通して大きな法
廷にしてもらうように上申書を出しています。法廷が決まりましたら、改めて連絡致します。
可能な方は傍聴にいらしていただけたら幸いです。
・ 支援会通信第6号に掲載しました、2月25日の東京地裁判決後の報告&支援会総会での世話人代
表の関田寛雄さんの挨拶を掲載します。
・ 世話人代表関田寛雄挨拶
例によりまして教会の闘いを導いてくださいますイエスさまに対する賛美からはじめたいと思い
ます。
(讃美歌「主われを愛す」一節を全員で歌う)
支援の会の世話人代表としまして、まずもって3人の弁護士先生の本当に貴重な、また綿密なご
報告をいただきまして、私どもの願いを目いっぱい訴えていただきましたこれまでの経過につい
て、心からお礼申し上げます。本当にありがとうございました。
法廷そのものの判決はご存じの通りでございます。私は、判決に先立ってどういう挨拶をしたら
よいかと思いまして、一応原稿は書いたのですが、この判決を前にして、これはもうここでパーに
して、聖霊の示されるままにお話しなければならないという気持ちになりましたので、原稿は無視
いたします。けれども、とっても貴重なことを教えられたと思いますので、それをそれこそ準備が
無いままにお話し申し上げます。
第一点は、今回の判決は皆さん非常にネガティブな意味で受けとっていらっしゃるかもしれませ
んが、私はむしろ非常にポジティブに受けとっております。つまり事柄は教会論の問題なんだ、お
前たちで考えなさいと、裁判所は突っぱねたのですよ。あなたたちは教会員でしょ、クリスチャン
でしょ、何をしているんですか、ということで、国の法廷としては、あなたがたの問題には口を出
せませんよということですよね。それは逆に言えば、国から教会が問われているわけです。教会は
一体一人の人間が営々と営んできた牧会の大事な実績のある一人の牧師をですね、聖礼典の理解の
相異、その執行の相異によって、それこそ生命権のすべてを奪うような免職処分という処置をす
る。それがキリストの教会か? そのことをあなたたちはどう考えているのか。逆に国家から問わ
れたということではないかと思います。これからが本当の闘いだと思います。また弁護士先生方の
お話から察すると、教団執行部はやりたい放題やるということになっちゃうわけですよ。つまり、
今や教団は上意下達だけの宗教団体になってしまった。カルト集団と同じではありませんか。上意
下達の宗教集団、そんなものはキリスト教ではありませんよ。むしろ建設的な内部批判をしっかり
受け止めるところにですね、成熟した教会の姿があるんじゃありませんか。
けれども同時に、今日の判決を聞き、非常に問題だと思った事は、一人の人間が、組織によって
生活を奪われるという、極めて大事な人権問題という事に裁判所は全く言及していない。北村慈郎
氏の人権が脅かされているという、公的事件である事を全く意識していいない。否むしろ逃げてい
るとしか思えません。私どもは改めて弁護士先生と共に北村さんの生活をとりもどすために、思い
を新たに闘うことを、ここでみなさん約束しようではありませんか。よろしくお願いします。
第二点は、この戒規の適用をめぐってです。(以下用意した原稿による)これはちょっと余談な
るかも知れませんが、教団の執行部の方が長年の牧会経験のある北村牧師がたまたま教団執行部の
聖礼典理解と違ったことをしたということで、十分な対話、十分な配慮もなく生命権に係るような
処置をしてしまった、そのプロセスがいかにも冷たい。教団執行部の今回の北村牧師戒規免職処分
の意味付けは、戒規は「愛をもって悔い改めを求める教会の訓練」であるということです。このこ
とで思い起こす旧い話があります。第二次世界大戦後、東西勢力の対立の時期に当たり、安保条約
の問題もあり、キリスト教とマルキシズムの問題でずい分烈しい論争がなされました。その時、か
つて代々木上原教会の牧師であった赤岩栄氏が、共産党への入党宣言をされました。キリスト者と
して生きつつ、共産党員として社会実践に入るという訳です。当時日本基督教団の教師委員会、信
仰職制委員会でも大変な議論になりました。その時、山谷省吾牧師や浅野順一牧師、小塩力牧師な
ど、大体高倉徳太郎門下の方々が度々赤岩牧師を訪ねて、思い留まるように説得されたのですが、
赤岩牧師の決心は固く、教団側の執行部では除名の噂が出る程でした。結果的には共産党の方から
赤岩牧師の入党を断って来たということでした。それは赤岩牧師が入党したら共産党員に伝道する
とか言われたので、党の方でそれは困るという話になったと聞いています。ここで私が言いたいこ
とは、北村牧師への戒規執行に先立って、どういう方々が北村牧師に対して誠意ある対応を続けら
れたのか、北村牧師の生活自体に関わる重大な問題について、どのような配慮が同じ教団の教職同
士としてなされたのか、という事です。その点、北村牧師にとっては非常に納得できないものがあ
ると思いますし、私どももその点からもこの免職処分の不当性を訴えたいと思うのです。
第三点は、「公同教会」ということについてです。上記の事にも関係しますが、最近、教団は合
同教会ではなく、公同教会であるべきである、という主張が一部でなされ始めました。それは教団
を均質的な統一、統合の教会としてまとめようという動きであり、その中で、主の晩餐の執行につ
いての統一的見解も打ち出されて来ています。その見解に賛同しない部分は「異端」として排除し
ようという姿勢が露骨に主張され、その連関で「公同教会」論が現れて来ました。しかしながら
「公同教会」とは、私たちが「使徒信条」で告白しているように、それは「信ずる」ものであっ
て、決して歴史的に所与としてあるべきものでないことは、教会史家の渡辺信夫氏も言っておられ
る通りです。主の晩餐の恵み深い意義を思うが故の問題提起であれば、教団としてはその内容につ
いて慎重に誠意をもって対応し、論議を重ねるべきでありましょう。かつて信仰職制委員会で継続
されていたこの問題が、理由もなく打ち切られていることは抗議せざるを得ません。凡そ真理問題
を特定の前提もしくは偏見によって切り捨て、対話を拒否するという姿勢は、凡そ真理問題に真剣
に関わるべき教会的姿勢とは言えません。イエス・キリストを主と仰ぐ者は恐れなく真理問題につ
いて開放されているべきでありましょう。私たちはドグマの教会でなく聖霊の教会である事を望み
ます。教団執行部は何を恐れておられるのでしょうか。私たちはむしろ「合同教会」の恵みをこそ
思うべきではないでしょうか。その特質は多様性に於ける一致です。イエス・キリストを真実に指
し示す、様々な個性的な努力です。その聖霊の導きによる一致を、人為的に画一化する形の「公同
教会」は必ず分裂することでしょう。北村牧師の免職の撤回は恵み深い合同教会への出発点ではな
いでしょうか。
第四に、約束としての「荒野の旅」に触れて終わりたいと思います。北村牧師の復権をめぐる闘
いは長きに亘って続けられなければなりません。それは出エジプト後の、イスラエルの「荒野の
旅」にも例えられるでしょう。まもなく85歳に達する私にして見れば、生きている間に「約束の
地」に到達できるかどうかは分かりません。モーセは約束の地を目前にして、ネボ山頂で召されて
行きました。私もそうなるかも知れません。しかし、皆様の後に続いての長い旅を続けるのは、私
がこの教団を、その戦責告白の歴史の故に愛してやまないからであります。祈りましょう。
歴史と教会の主なる神よ、様々な曲折を経ながらもイエス・キリストのみを救い主として仰ぎ、
罪と弱さを抱えながらも主の十字架の贖いの故にあなたにお仕えすることがゆるされている、我ら
の教団を憐れんで下さい。主の御名によって祈ります。 アーメン