なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(192)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(192)」復刻版を掲載します。

 昨日は、鶴巻の私のところにこの4月から小学1年生になる女の子と5年生になる男の子にお父さんお母

さんの4人の家族が、春休みということで、遊びにきました。この家族は、私が2年前に紅葉坂教会を辞し

この鶴巻に居所を構えてから、春休みと夏休みに一度ずつ来るようになりました。鶴巻は丹沢が近く、ま

た小田原や箱根にも近く、自然が豊かなところですので、子こどたちが一日楽しく遊ぶところに事欠きま

せん。今回は、残念ながら雨の日でしたが、お昼を食べてから、小田原の神奈川県立生命の星・地球博物

館に、私も一緒にこの家族のバンに乗せてもらって行きました。帰りは、途中国府津のショッピングモー

ルの中にある子供の遊び場に寄り、2人の子供たちが駆けずり回って、からだが汗でびっしょりになるま

で遊び、二宮から秦野に出て鶴巻に戻ってきました。それから鶴巻温泉の弘法の里湯で汗を流してから、

すっと家にいた連れ合いが用意していくれた夕食を共にし、午後9時ごろ帰っていきました。

 半年ごとに会う2人の子どもの成長には目を見張らせるものがあり、私たちも元気をもらっています。       


       黙想と祈りの夕べ通信(192[-35]2003.6.1発行)復刻版

 お年寄りの方と接していて感じることがあります。一人一人の思いを、時には受けとめられないで、自

分の方の思いで事を進めていってしまうのです。そういう時に、お年寄りの心を傷つけていながら、自分

ではなかなか気がつかないのです。自分が段々年を重ねて、お年寄りの気持ちが少しわかるようになっ

て、あの時、本当にこうしてあげればよかったと気づかされたりすることがあります。しかし、すでにそ

のお年寄りは天上の人になっていて、後の祭りです。同じようなことを私は若い時に経験しました。まだ

10代の後半でしたが、その頃私の母は筋萎縮症で全身の筋肉が衰えてベットに寝たきりでした。水分も吸

い飲みで誰かが与えなければ摂ることができませんでした。若かったし、自分のやりたいことを優先し

て、随分母の思いを受けとめられずに傷つけていたのではないかと、母が亡くなって大分経った頃思うよ

うになりました。今年95歳のYさんが、今回今までいました施設から新しい施設に移ります(5月26日

に移りました)。それはYさんの意に反することですが、身辺自立を条件とするこれまでの施設から介護

ホームへという、Yさんをお世話しておられる方の強い意志によるものです。お世話しておられる方の思

いも理解できますが、結果的にYさんの思いを受けとめられませんでした。たまたま今度の施設には、当

教会のKさんがしばらく前から入所していて、お二人がそこで再会されるはずです。Yさんを覚えてお祈

りください。(Yさんは、後年その施設で召され、ご本人の意志で生前大学病院に献体していましたの

で、その施設から私と数名の教会関係者で見送り、数年後お骨になってから、Yさんの希望通り紅葉坂

会の墓地に埋葬されました。まだ私が在職している時でした)。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。日曜学校の礼拝でHさんがお話をした。

お話の中でイエスさまのところに子どもが寄ってきたとき、弟子たちがそれを止めたが、イエスさまの時

代の社会では女の人や子どもが一人前に扱われず、弱い子は捨てられてしまったんだよと、話された。そ

の時、Kくんが「そんな時代は想像しにくいねー」と言った。私は文学的センスが貧しいのかもしれない

が、私の子どもの頃の日曜学校では上から教えられ、聖書も正典的な読み方で、想像して読むということ

は少なかった。行間を読むフェミニスト神学を学び、男が書いた聖書を想像力を膨らませながら読むとい

うことを思っていたので、Kくんの「想像できないねー」という一言で、励まされて、自分ももっと想像

力を膨らませていきたいと思わされた。そしてお互いの想像力をもって読んだことを交換できるようにし

ていきたい。性差別問題特別委員会で結婚式の式文の文章を検討していたので、Kくんの一言が強く響い

た。



          「神は窮めがたい」(『ルターの日々のみことば』から)


 そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。 ローマ11:33


 わたしたちあわれでみじめな人間は、みことばと力あるみわざによって確証してくださった神のご命令

と働きの一端もまだ理解できず、信仰によって神の約束の光も把握できないのに、なぜ神の性質について

思いめぐらして頭を痛めるのでしょうか。

 わたしたちが窮めることもできず、測り知ることもできない神のみこころについて、教えなければなら

ないことは事実ですが、しかし、これを理解する責任を負うとすればそれは、全く危険であって、そのた

めにわたしたちはつまずいて首をおることになるでしょう。わたしはいつも主キリストがペテロに言われ

たことばによって自分を抑制し、導かれるようにしております。「あなたにはなんの係わりがあるか。あ

なたは、わたしに従ってきなさい」。ペテロも神のみわざについて考えめぐらし、論じ、主がどのように

他の人を扱われるか、すなわち、ヨハネにどんなことが起こるであろうかを尋ねたのです。また、ピリポ

が、「わたしたちに父を示してください」と尋ねた時にどのように答えられたでしょうか(ヨハネ14:8-1

0)。「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしを見た者は、父

を見たのである」。ピリポも父のみいつと臨在を見たいとしきりに願ったからです。これらすべてのかく

された神のさばきをわたしたちが知ったとしても、今、与えられている神のご命令と約束以上に、なにか

益があり役に立つことがあるでしょうか。

 これらすべてをこえて、神の約束と、戒めによるみわざのうちに信仰を実践しましょう。

                                    卓上語録