なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(131)復刻版

        
         黙想と祈りの夕べ通信(131[-26]2002.3.31発行)復刻版

 今日は礼拝後に教会総会が開かれました。総会では2002年度の計画が審議され、可決されました。総会後に新しい役員を加えて新年度の役員会の打ち合わせがありました。そこで役員の役割分担が確認されました。その後宣教委員会が開かれました。2001年度のまとめの会ですが、新しく選ばれた宣教委員も加わって行われました。

 そこで今年度の委員長のK兄が一年の宣教委員会の働きや課題を文書にまとめたものを、全員に配り、それを読みました。そこには総論と各論としていろいろ書かれていましたが、特に総論の部分では、私が7年前にM教会に着任して掲げてきました「共生と自立の場としての教会」という宣教方針がどういうことを言っているのかがまとめられていました。今まで私が教会だよりに書いたり、いろいろな場で言ったりしてきたことから、K兄が理解したものを抜き書きの形でまとめたものです。

 K兄のまとめはほぼ私の意図通りのものでした。自分の思いが受けとめられるということは、大変うれしいことです。そこには、私が言おうとすることに耳を傾けて、聞いてくれる他者の存在があるからです。自分の思いが受けとめられ、語ることが聞かれる他者の存在は大きいと思います。今回自分が受けとめられたという経験を通して、改めて他者に対して自分も受けとめる存在でなければと思わされました。

 上記の私の発言に続いて、一人の姉妹が以下のような発言をしました。最近教会で二組の結婚式があった。二組とも花嫁がいつも笑顔を絶やさない方だった(新郎は二人共少々緊張気味)。結婚式から披露宴が終わるまで、最初から最後まで、にこやかに、うれしそうな笑みをたたえている。お二人とも育ってきた過程で沢山の幸せを経験してきたのだろうと想像した。花嫁の笑みというものはこの時代の平和というものと、どこかで繋がっているのではないかと思った。子育ての母親が緊張の中で、子どもの父親である夫から暴力を振るわれたり、子どもに虐待をしてしまう悲劇がしばしば伝えられる中で、この笑みがいつまでも絶えないように祈りたい。(若い人には結婚がすべてではないが)、そのためにも世界の平和を祈り、今結婚し家庭を築いている人たちの中に、苦しい思いをしている人たちのことも覚えて祈っていきたい。

 今回の教会総会は、私の3期目の牧師再任が可決されました。ということは、4月から5年後2007年3月まで私がM教会の牧師として働くということです。その後は私の健康が許され、M教会の牧師を続けられるとしても、4年後2006年3月に4期目の再任が諮られることになります。まずは今後の4年に賭けたいと思います。そこで、現在から未来を展望するときに、私自身としては、宗教としてのキリスト教とその教団としての教会は、歴史的な年齢が終りかけているのではないかという問題を感じています。けれども、イエスの福音には現在はもちろん未来をつぐむ命があると確信しています。ですから、今後私としては、今まで同様に、できればそれ以上にイエスの福音とは何かを自分なりに探求していくことに、そしてM教会の諸兄姉と共にイエスの福音における交わりの可能性を追求して参りたいと願っています。どうか私の牧師としての働きを覚えてお祈りください。

    
    「まことの神、まことの人である救い主」(『ルターにより日々のみことば』より)


  キリストは、神の形であられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おの  れをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならなかった。
                            
                                   ピリピ2:6-7


 わたしたちは、まず、この世の神と君と、悪魔と、罪と死から救うことのできる救い主を必要とします。すなわち、永遠の神であり、信じるものはすべてこのかたによって義とされ、祝福される救い主です。それはもしこのかたが、モーセや、エリヤや、イザヤや、バプテスマのヨハネよりもりっぱで偉大なかたでないとすれば、わたしたちのあがない主ではありえないからです。しかし、もしこのかたが、わたしたちを罪からあがないきよめるために、神の子であるのに血を流してくださり、またもし、わたしたちがこの事実を信じ、悪魔が罪を理由におびやかし悩ましても、悪魔の鼻の下でこの事実にすがりつづけているならば、悪魔はすぐ敗北し、道をゆずり、わたしたちを平安のうちにおいておくしかしかたがなくなります。

 次に、わたしたちは、肉と血を同じくするわたしたちの兄弟としての救い主を必要とします。このかたは罪をほかにしてあらゆる点においてわたしたちとひとしくされました。これについては、わたしたちが幼な子のように語り、歌うようにと教えられているところです。それによってわたしは喜びをもってこう言います。わたしは神のひとり子イエス・キリストを信じる。彼は父の右にすわり、わたしのためにとりなしをしてくださり、同時にわたしの血と肉をわけた兄弟となってくださった。わたしたち人類のために、わたしたちの救いのために、このかたは天からくだり、人となり、罪のために死んでくださったからである。

                               ヨハネ福音書第一章の講解