なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(132)復刻版

        黙想と祈りの夕べ通信(132[-27]2002.4.7発行)復刻版

 O兄が3月29日の聖金曜日に召されました。3月31日の黙想と祈りの夕べで、私はO兄のことを話しました。その後4月1日の月曜日に前夜式が行われ、式辞でお話ししたこととも重なりますので、前夜式の式辞での話の内容を要約したいと思います。O兄の人となりを大変よく示しているのが、兄の愛唱していて、家族の方々に自分が死んだら歌ってくれと言われていたという、こどもさんびか12番だと思います。

「ぱらぱらおちる 雨よ雨よ/ぱらぱらぱらと なぜおちる/かわいたつちを やわらかくして/きれいな花を さかすため//きらきらひかる 星よ星よ/きらきらきらと なぜひかる/たびする人が くらい夜にも/まよわずみちを いけるため//ちらちらおちる 雪よ雪よ/ちらちらちらと なぜおちる/葉のない枝に あたたかそうな/まわたのふくを きせるため//ちゅんちゅんうたう 鳥よ鳥よ/ちゅんちゅんちゅんと なぜうたう/きれいな歌で 世界の人に/み神の愛を しらすため」

 この最後の歌詞に、「み神の愛を しらすため」とあります。O兄とお連れ合いのH姉との夫婦愛は、お二人をよく知っておられる人なら、誰もが認めることでしょう。お子さんにもお孫さんにも、そして長い間の小学校教師として教え子たちにも、同じように愛情を注がれたに違いありません。小学校校長を退職後、O兄はいろいろな活動にかかわりました。町内会や民生委員として地域の方々と関わりました。また寿地区活動委員会や社会福祉小委員会の委員として、日雇い動労者、野宿者の支援の働きや障がい者の問題にも誠実に関わりました。頼まれますと、断れない人でしたし、頼まれたことはきちっとなさいましのたで、他の人からの信頼も厚く、次から次へいろいろな活動を通して、O兄は「神に愛された者として、互いに愛し合う」という聖書の使信を実践されたのではないでしょうか。

 しばらく前にO兄は、「礼拝は日曜日の教会での礼拝だけでなく、自分の置かれた生活の場である町内や地区で、さまざまな活動を担うことも自分にとっては礼拝である」とおっしゃったことがあります。この言葉の中に、O兄の信仰者としてのあり様が、よく示されているように思えてなりません。O兄を神に委ねると共に、残されたご遺族の方々の上に神の導きをお祈りいたします。

 続いて一人の姉妹が発言した。今日親戚の者が訪ねて来た。彼は日本基督教団S教会の教会員である。3年前に連れ合いが亡くなり、彼女がS教会の教会員であったので、それ以来教会に行くようになり、洗礼を受けた。今35歳過ぎになっている息子を日曜学校に通わせている頃、彼は連れ合いに、神はいるのかなどと、茶化したこともあったと言っていた。商売人である彼は、時には不正に手を染めなければならないこともあったであろう。けれども、今は神さまを求め、信仰の道を歩みつつ商売をしていて、平安に生きられること、最近は礼拝で讃美歌にも馴れ、歌えるようになったと、喜んでいた。今日は午後に三ツ沢の教会墓地で墓前礼拝があった。そこで讃美歌21-385番を歌った。その讃美歌の一節に「いのちを満たす愛を歌いつつ生きた、この友の歌が、私を連れ戻す、主の道へ」と歌われていたように、彼は連れ合いによって神へと連れ戻されたように思う。

 また一人の姉妹が、信仰を与えられている喜びを語ってくれた。


       
      彼はわれわれの病を負い」(『ルターによる日々のみことば』より)

 
  まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
                                 イザヤ53:4

 実にこれは明白で、力強いことばです。この王の悩みはわたしたちの悲しみであり、嘆きであったのです。主は、永遠にわたしたちのものであるべきはずであった重荷を負ってくださいました。わたしたちがむち打たれ、くだかれ、うえとかわきを体験し、永遠に死ななければならなかったのに、これらすべては主の上におかれました。主の苦しみはわたしたちのため、あなたがたの益となるために苦しんでくださったからです。しかし、わたしたちは、主が神によって苦しめられ打ちたたかれたのだと思いました。

 それはほんとうです。モーセも、「木にかけられるものはのろわれる」と言っております。ですから主は罪に定められ、のろわれたものとして侮辱されたのでした。主はご自分を助けることすらできない、ではどうして他の人々を助けることができるのだろうか。このような考えは正しくありませんでした。それは主がわたしたちの悲しみをになっておられるからです。表面的に見ただけでは、主はのろわれているようにみえます。しかし、霊によれば、わたしの悲しみ、あなたがたの悲しみ、わたしたちすべての悲しみをになわれているのです。

「彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」。

主は懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」。主は懲らしめを受けて、われわれは平安を与えられました。わたしも、あなたも、全人類は神の怒りを招きます。ところが主は、わたしたちが罪からあがなわれて平和のうちにいこうようにと贖罪のわざをなしとげてくださったのです。主は苦しまねばなりませんでした。そして、わたしたちは自由になります。

 わたしたちはこの大きな愛とあわれみを忘れるほど恥知らずとなってはいけません。

                             1531年の説教から