なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(121)

 昨日は木曜日で鶴巻から船越への移動日でしたが、午後辺野古新基地反対国会前座り込みに行ってから、船越教会に向かいました。午後6時少し前に教会に着きましたら、礼拝に来ておられるNさんが、庭の草取りと水撒きをしてくださっていました。Nさんは昨年4月に私が船越教会で牧師としての働きをするようになってから、礼拝に出席するようになり、それ以来教会の庭や崖の手入れをしてくださっています。お陰で教会の庭も崖のきれいになっています。昨年はNさんが教会の庭に植えてくれたオクラの収穫に与り、新鮮なオクラを食卓に添えることができました。今年はズッキーニとゴーヤとナスを植えてくださり、特にゴーヤに恵まれています。私は、一度自己流のゴーヤちゃんぷるを試みましたが、新鮮なゴーヤをサラダにして食べています。

 さて今日は「父北村雨垂とその作品(121)」を掲載します。



            父北村雨垂とその作品(121)

 
  原稿日記「一葉」から(その4)

 西脇順三郎氏は私の最も尊敬している詩人で、その著書『詩学』はその初版以来私の手許において参考としてゐたが、発病以後はとかく忘れがちで居たが、小康を得たのでいまいちど讀んでみた。そのうちから「すぐれた新しい関係を発見することは、すぐれがポエジーの目的である」として、それはプルドンの云う「未知」カラルメの云う「謎」であらうと云い、私のすぐれた新しい関係というものは思考としての表現では云えないものを感じさせる。それはひとつの幻想であって、それは無限とか永遠と云う様なものを象徴してくれる様に思われる。

 禅で云う「大空三昧という様な意識を与えて呉れる」と云ひ、之を卑俗的に云って「何物も象徴していないということを象徴している様な意識を与えて呉れる」と云っているが、私にはまた、何となく解った様な解らない言葉なので、少しこの「空」について調べてみやうと考へた。以下その報告したいものを、お目にかける訳であるが、病後は大分頭がおかしくなってゐるので、その点を特に御注意願っておきます。

 まづ「大空であるが禅で大空という表現を直にしている所を私は知らない。佛教では唯空を提唱してゐる。弁証法では「絶対無」を提唱してゐるが、~西田幾多郎田辺元、両博士~、そうした訳で或は「絶対空」とでも云うことかも知れぬ。或は大乗教典にみる「空」を指して、そこから発展した中国に於ける禅の空観を西脇氏流に、それ以前の小乗佛典に於ける「空」と別けて表現したものかも知れぬ。そこで少しく空の源流を見ようと思う。
 
 法華教では、空について、この世に存在するものは、すべて因縁によって存在する様になったもので、実体又は本質と言ったものは無いとして小乗佛教の縁起説を止揚した説である~岩本氏訳正しい教えの白蓮、サンスクリット語による法華教の訳註~中論を書いた竜樹も「縁起を空と云う」と定義しているので大乗教典の因縁なる空を分けて後者による空を特に大空としたものであらう。

 ここで少しく天台の本覚論を調べてみよう。それについて田村芳朗氏はその思想概説で次の様に云っている。「空の観念は無の意味に誤解されるきらいがあった。いったい空とは自己(人)と対象(法)についての執着(人我見)(法我見)を破したものを言うことで、人無我ないし人空、法無我ないし法空と稱された。人無我とは自己に対するとらわれにあり、法無我とは対象としての事物にとらわれることである。現代用語で置きかえるなら前者を主観的、後者を客観的と稱することが出来よう。従て人我見の否定である人無、人空は自己の主観的色メガネをはずして事物に即してありのままに見ることを意味し、~私見であるが、西田氏の『善の研究』で書かれた純粋経験から思惟、意志或は実在に至る論理が無縁でないことに興味があるが、私の体力を考へて割愛する。法無我、法空は対象に対するとらわれを捨てて自己をとりもどす。西田氏の純粋経験に相当すると私には考はられる~、現代用語でおきかえれば、主体的と言うことである。

 まとめれば空とは客観的にして主体的と言うことで、これに空の一切の存在を言うのではなく、逆にそれを眞に成立させる原理と云うことである。竜樹が中観論四諦品第二十四で「空性が成立するところに一切が成立する。空性が成立しないところに一切が成立しない」と云って一切皆空即ち一切皆成を主張し、後に眞空妙有などのタームが出来たゆえんである。事物と自己に分けて云えば、事物は事物に即して生かされ、自己は自己として確立されると云うことである。

 大乗教典の最初のものであると考へられる般若教に於て空の原理的解明に注がれたが、それに續く経典ではこの客観的と主体的と言う二方向にそって、空の積極的表現化に努めていた。例えば法華教に於手諸法実相が強調され「是法往(住)法位世間相常住」方便品第二等などと説かれ強調されたりしているのは、前者に当るものであり、華厳教に於て「三界虚妄但是一心作」~十他品第二~などと一心が強調されているのは後者に当ると言えよう。いわゆる主体的精神の確立である。これが本覚論に於ける止観による知恵である。止観とは禅に於ける禅定であり、~禅はサンスクリット語で・・・・・静かに考へることで座禅すること、亦は止観などの行為となる様である。

 さて、どうやら西脇氏の云う大空の周辺までにはたどりつけた様に考へられるが、如何なものであらうか。菩提達磨が直指人心見性成佛の旗印をかかげて海路はるばる中国へ渡来して以来、素晴らしい発達を遂げたものと承知している中国禅のうち大器抜群と稱せられている禅者 臨済の言行を託した臨済録の一節を摘出して「大空」の解説を終ることとする。
(以下岩波文庫臨済録141頁をうつす)。