なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(59)

     マルコ福音書による説教(59)マルコによる福音書14:22-31、
    
・14:22-25は、裏切りと逃亡という弟子たちの否定的な人間の現実のただ中で、イエスご自身は、あくまでも弟子たちとの関わりを断念しないだけではなく、本来のあるべき弟子たちの姿への回復を、この晩餐における象徴的な行為(パンと杯)によって、用意しています。彼らがイエスの者であることを、彼らの裏切りや逃亡によっても断絶しないイエスとの関わりが、この象徴的な行為の意味だと思います。この象徴的な行為を語る説話の後に続いて、イエスとペテロとの問答が記されています。

パウロは「わたしは弱い時にこそ、わたしは強い」(競灰蝪隠押В隠亜砲噺譴辰討い泙垢、これは逆説的な言葉です。人は誰も自分自身の最も触れられたくない部分―弱さ、欠点、醜さ、不信―を隠しておきたいものです。まして、自分が心から信頼して従ってきた者やその仲間に対する裏切りや逃亡というような行為をした人間が、再び信頼関係を回復して、共同の歩みへと導かれることは、殆どありえないことのように思われます。今日のマルコによる福音書14:26-31に記されている記事は、イエスを敵対者に売り渡したイスカリオテのユダだけでなく、ペテロを代表とする他の弟子たち全てが、「あなたがたは皆、わたしにつまずく」というイエスの警告を、自らの逃亡というにがにがしい体験と重ねて、「おそらく使徒たちが若き日の忘れえぬ出来事として終生こころに銘記したことであろう」と思われます。

・イエスの警告に対するペテロの応答は、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(29節)、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなってもあなたのことを知らないなどとは決して申しません」(31節)という堂々たるものでした。そうであればあるだけ、イエスの死に直面して、卑怯にもイエスとは関わりがないと言い、逃げ去ってしまった彼らの無責任さ、自分勝手さは、人間が持つ暗闇を示していると言えるでしょう。

・けれども、このペテロの立派な決意は嘘ではなかったでしょう。ある意味では、真実、心からのものであったと思われます。そういうペテロの思いが、思いとしてそれ以後の状況の変化、つまりイエスの逮捕と審問と処刑という、まさにそのイエスと共にどこまでも一緒に行くことは、ペテロ自身がイエスと同じ運命を共にすることになることがはっきりとし、ペテロ自身の逮捕、審問、処刑が予想されたとき、イエスを知らないと言ってしまったというのです。

・そういうペテロの中にある裏切りという暗闇は、ペテロに限らず、私たちが信仰や己れの思想に従って生きて行こうとするときには、誰にも切実に問われている事柄ではないかと思います。

・この記事は、弟子たち自身の「自らの証言」として、自らが犯した裏切りという過ち(罪)を包み隠さずに言い表わし、悔改めを経て、新しい歩みが始まることを私たちに語りかけているのではないでしょうか。

・「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたは皆わたしにつまずく。《わたしは羊飼いを打つ。/すると、羊は散ってしまう》と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く。』」(14:27-28)。このイエスの羊の分散と復活によるガリラヤでの集合を示す言葉も、弟子たちに悔改めを通した新しい歩みを暗示しているように思われます。

・私たちの日常生活はどうでしょうか。ここで弟子たちが証ししているように、自らの汚い部分、卑怯で無責任で自分勝手な存在である自らの否定的な人間性を、根本的に問うことを回避し、そのような自己の暗いところにはふれないで成り立っている生活ではないでしょうか。自分も他者の「弱点」を追究しない代わりに、他者からも自分の弱点を追究されたくないという馴れ合いによって保たれる人間関係。それが私たちの現実ではないでしょうか。

・そのような中で、自分の仕事や関心ある事に、生きがいを見つけて充実した生活が出来れば、その方向がどちらに向っていても、たとえ人を傷つける結果になっても、それが幸せなのだというところで、強いてお互いの真実な関わりを求めようとはしないのです。そのようにして、自分が他者との関わりを断ったり、偽りの関係を正す努力を放棄して、仕事や自分の関心あるものへ傾斜していくときに、私たちは一体どうなっていくのでしょうか。仕事をこなすこと、その結果物質的に豊かなさを享受するようになります。また余暇を利用して快楽を満足する生活が出来るかもしれません。そのこと自身は決して悪いことではないとしても。

・しかし、私たちが個の世界へと分散し、そこへと閉じこもるときに、他者の存在(身近な家族の者から遠きアジアやアフリカの人たちまで)が自分の視界に入ってこないということがあるのではないでしょうか? 物理的には一緒にいても、人格的な呼応関係、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむという共生、共感を失ってしまうとすれば、私たち自身の主体性をも失い、何かそういう私たちを自由に踊らす力(金や仕事)の奴隷になってしまうのではないでしょうか。この世の権力や金に使われる人間。事実私たちは、日々そのような世界を生きているのです。しかもその世界を絶対としてはいないでしょうか。

・「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。/すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ」(27節)。ここに引用されているゼカリヤ書13章7節は、〈罪と汚れ〉を清めて、真実な民に導くという文脈の中にあります。9節後半に、「彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え、/『彼こそわたしの民』と言い/彼は、『主こそわたしの神』と答えるであろう」とあります。羊が散らされて、再び集められる時には、神と民との間に呼応関係が、つまり信頼が打ち建てられる、というのです。ゼカリヤ書の場合は、裁かれて、全地の三分の二が死に、更に残された三分の一の人たちも、銀や金を精練するように試みられて、その残った民が集められるというのです。

・マルコ14:28、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」というイエスの約束は、イエスを裏切り、逃げ去った弟子たちへ向けられています。この「先に…行く」という言葉は、「先立って…行く」という牧者用語であると言われています。ヨハネによる福音書10章4節、「(彼は)…先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」とある通りです。つまり、ふるいわけられたら、彼ら自身の存在と行為を基にして判別されたら、残れない弱さを抱えた人間を、イエスは復活して、再び集めてくださっているということが言われているのです。

・以前名古屋の東山動物園に、教会の子供たちと行ったことがあります。子供動物園があって、そこには囲いの中に放し飼いされている山羊や兎のような小さな家畜がいて、子供たちがさわれるようにもなっていました。その中に二匹の羊がいました。いかにものんびりしていて、柔和そのものでした。争い、競い合うことは苦手のように見えました。狼につかまったら、ひとたまりもないだろうと思えました。しかし、ジュウ-タンのような分厚い毛は、多くの人の役に立っています。ヨハネによる福音書の10章に出てくる良い羊飼い、羊のために命を捨てるイエスと、彼に導かれる羊としての私たちという構図は、私たちのあるべき姿を示しているように思われます。

・この分散から再結合へという道は、イエスの復活によって実現しますが、そのことは私たち弟子と同じ者にとっては、裏切りと逃亡に現われた人間の暗い部分としての利己性が打ち砕かれ、新しく変貌して、生まれ変わることでもあります。その生まれ変わりを生起させる力は、イエスの復活によって、私たちが十字架のイエスから己れを見なおすことへと促され、死に勝利したイエスに希望を発見することが許されるからであります。

ゴルゴダの丘へ十字架をかついでゆくイエスを、弟子たちは誰も救うことはしません。出来なかったのです。十字架を一緒に担うこともしません。出来なかったのです。クレネ人シモンが乞われて手伝ったときも(15:21)、先生であるイエスが泥だらけ、血だらけになっているときにも、弟子たちは離れて見ていただけです。「人の弱さを受け入れるということは、十字架の血につながるもの」であります。「人を受け入れるということは、自分の血が流れるということ」です(井上洋治)。イエスは十字架で血を流されたのです。

・強さを誇示したペテロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と、格好の良いことを言いながら、何も出来ないで逃げ去ってしまったわけです。ペテロはイエスの死が自分のためだったということを気づいたのではないでしょうか。弟子たちの変貌は、そこから生まれたのではないかと思います。そして、復活のイエスに従って、交わり(集合)へと己れをかけていったのです。

・しかし、私たちは常にイエスによってしか立てない己れであることを知らなければなりません。イエスに背負われた者であるということを忘れて、自分がイエスを背負っていると思い上がる時には、再び羊飼いイエスを離れて一人歩きするからです。

・今日は8月5日です。教団ではこの日が平和聖日です。かつての日本の侵略戦争の経験を踏まえて、アジアの人々への加害、沖縄、ヒロシマナガサキの悲劇を繰り返さないために平和聖日が定められているのだと思います。この文脈からしますと、弟子たちの悔改めは私たちにとっては、イエスを主とする信仰を捨てて、天皇を主にして戦争協力をしてしまった教団や教団信徒・教職が戦責告白に立って、イエスを主とする信仰に立ち帰って、再び戦争への道を進まない決意をもって生きることではないでしょうか。

・昨年の3・11という東日本大震災と東電福島第一原発事故を受けて、日本政府は一人一人の命と生活を守るのではなく、福島第一原発の事故原因と万全な安全対策を究明したとは思えない段階で、経済を優先にして原発再稼働を決めました。この選択は戦争に繋がるものだと思われます。今苦しんでいる人たちをみんなで支える社会こそ、戦争とは無縁な平和な社会です。苦しんでいる人たちを見捨ててしまったとき、その社会は一部の特権階級を守る社会になっていきます。その結果、戦争をも辞さないところまで行きつくのです。最も小さな者に為すべきことを為さなくなったとき、どんな正当な理屈をもってしてもそのような社会は非人間的な社会であり、すべての人の命と生活を守りはしません。そのような社会はイエスの福音にも反するものです。