「よりどころ」エレミヤ書17:1-11、
2016年7月17日(日)船越教会礼拝説教
・今日のエレミヤ書の箇所は、現代にも通じる人間の状況が語られているように思えてなりません。
・ここでエレミヤが直接問題にしているのは、エレミヤの時代のエルサレムとユダの人々、つまりイスラ
エルの民です。エレミヤが目の当たりにしているイスラエルの民は異教の神々に礼拝を捧げているのです。
異教の神々の祭壇は、<どの緑の下にも/高い丘、野の山の上にもある>(17:2)と言われています。そ
の祭壇にて異教の神々を礼拝するイスラエルの民の罪は、<心の板に、祭壇の角に/鉄のペンで書きつけ
られ/ダイヤモンドのたがねで刻み込まれて、子孫に銘記させるものとなる>(17:1,2)と言われていま
す。イスラエルの民の心の板に<鉄のペンで書きつけられ、ダイヤモンドのたがねで刻み込まれて>と言
われていますから、その罪はイスラエルの民の心に強く刻み付けられていて、何ものによっても取り去る
ことが出来ない程であるというのです。
・そのようなイスラエルの民に対して、神ヤハウエは<お前の聖なる高台での罪のゆえに/至るところで、
敵が奪うにまかせる。/わたしが継がせた嗣業をお前は失う。/また、お前の知らない国に行かせる。/
わたしの怒りによって火が点じられ/とこしえに燃え続ける>(17:3,4)というのです。
・5節、6節には、イスラエルの民の罪の現実が、別の形でこのように言い表されています。<主はこう
言われる。/呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、/その心が主を離れ去っている人は。/彼
は荒れ地の裸の木。/恵みの雨を見ることなく/人の住めない不毛の地/炎暑の荒れ野を住まいとする。>
・ここでこのように語られています、古代イスラエルの民の罪の状況は、現代世界の私たちの状況と重なっ
て見えます。現代は資本(金)を神とするグローバルな世界状況にあると思われますが、私たちはその資本
に奴隷のように仕えているのではないでしょうか。<人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、/その心が主を
離れ去っている人は>と言われていますが、これはまさに私たち自身でもあるのではないでしょうか。産業
革命以降の近代社会の中で、曲りなりにも先進国と言われる国々の人々は、多かれ少なかれ経済人間になっ
ていて、資本の力に取り込まれてしまっていると言えるからです。
・私は、今住んでいます鶴巻温泉からこの船越教会に来る途中、海老名で小田急から相鉄に乗り換えて来ま
す。その海老名に「複合型商業施設、ららぽーと海老名.」が昨年10月末に開業しました。小田急線をはさん
でその反対側に丸井などの商業施設があります。ららぽーと海老名が開業するまでは、丸井などのある商業
施設には、日曜日船越教会の帰りにたまに夕飯の食材や時にはお弁当を買うために寄ったりしますと、日曜
日の夕方なので、結構買い物客が多く来ていました。ところが、ららぽーと海老名が開業してからは、そち
らの方に多くの人が押し寄せて、丸井のある方はめっきりと人が少なくなってしまいました。ららぽーと海
老名のような複合型商業施設はいろいろなところに出来ていますが、たまにそういう商業施設に行った時に
感じるのは、この人の集まりは、全く世俗的なもので宗教的な集まりではありませんが、資本への拝跪とい
う一種の礼拝のような祭儀行為ではないかと思うことがあります。多少お金を持っている人でないと、その
ような商業施設に行っても、買い物する快楽を味わうことが出来ないわけですから、貧しい人は自分の来る
場所ではないと思うに違いありません。資本が主人になっている現代の高度資本主義社会は、人々が消費す
ることによって成り立っている社会ですので、ららぽーと海老名のような複合型商業施設があちこちに点在
していて、そこに人々が集まって来るわけです。それは、あたかも異教の神々の祭壇があちこちにあって、
そこにイスラエルの民が礼拝に集まって来るという、エレミヤがここで描いているイスラエルの民の罪の姿
と本質的に変わらないのではないでしょうか。
・<主はこう言われる。/呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、/その心が主を離れ去っている
人は。/彼は荒れ地の裸の木。/恵みの雨を見ることなく/人の住めない不毛の地/炎暑の荒れ野を住まい
とする。>(5,6節)。ここで<呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去って
いる人は>と言われているのは、エレミヤが批判しているイスラエルの民であると共に、私たちでもあるの
ではないかと思えてならないのです。消費を中心とした都市生活者が圧倒的に多い現代の日本社会のような
ところは、人が本当に住む所なのだろうか。資本が作り出した虚構の世界であって、お金を沢山持っている
人だけが住み心地のよいという現代の都市空間は、本来<人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野>ではない
のか。他者を大切にする思いが互いに豊かにあって、互に助け合い支え合って、与えられたこの大地、嗣業
としての自然の中で共に生きていくという、神ヤハウエとの契約の民イスラエルの本来あるべき姿からすれ
ば、一人ひとりの人間の欲望をベースにした、異教の神々、豊穣神バール崇拝に明け暮れるイスラエルの民
の罪の現実と、我々現代人の姿とは同じではないのかと思えてならないのです。
・9節から11節に語られていることは、そのまま私たちに向けられた言葉として読むことが出来るのではない
でしょうか。<人の心は何ものにもまして、とらえ難く病んでいる。/誰がそれを知りえようか。/心を探
り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。/それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。/しゃ
こが自分の産まなかった卵を集めるように/不正に富をなす者がいる。/人生の半ばで、富は彼を見捨て/
ついには、神を失った者となる。>。このエレミヤの言葉は、2600年前に語られた言葉ではありますが、そ
のまま現代人である私たちに語られた言葉として読めるように思うのであります。<しゃこが自分の産まな
かった卵を集めるように、不正に富をなす者がいる>と言われていますが、資本を中心に作られている現代
の資本制社会は、社会そのものが不正に富を生み出すシステムになっています。株式投資はその際たるもの
です。現代社会は金融社会になっていますから、株価が上がったり下がったりすることによって、株を買っ
ている人は、儲かったり損失したりします。日本基督教団の年金局でも、資金の一部を株投資に回しており、
リーマンショックの時は大分損失しましたが、アベノミックスによって株が高騰して、損失をカバーし、さ
らに利益が出たと言って、一喜一憂しているのであります。働かざる者食うべからず、ではなく、働ける者
ははたらき、その得た収入から、必要な者が必要なだけ得るという社会が聖書的な社会ではないかと思うの
ですが、今はその逆で、勝ち組、負け組がはっきり表れる格差社会にますますなっているように思われます。
社会そのものが的を外してしまっている。罪(的を外すこと)に陥っているのではないでしょうか。
・7節、8節に<祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。/彼は水のほとりに
植えられた木。/水路のほとりに根を張り/暑さが襲うのを見ることなく/その葉が青々としている。/干
ばつの年にも憂いがなく/実を結ぶことをやめない>。<主に信頼する人>、<主がその人のよりどころと
なられる>、そのような人は、古代イスラエル社会においては<干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶこと
をやめない、水のほとりに植えられた木>に譬えられたのでしょう。けれども、ローマ帝国支配下のユダヤ
の国では、ナザレのイエスこそ<インマヌエル>、<主に信頼する人>、<主がその人のよりどころとなら
れる>人でありました。そのイエスは、最後に「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったので
すか」と叫びながら、殺されていったのです。
・本田哲郎さんは、釜ヶ崎の労働者の方々を、自分の信仰の先輩と言って、彼ら彼女らに自分は学んで生き
ていくのだと言っています。釜ヶ崎の労働者はその人生において既に苦しみという洗礼を受けている信仰者
であると、本田哲郎さんは考えているのだと思います。釜ヶ崎の労働者は、その人の主観を超えて、つまり
その人がどう思っていようが、<主に信頼し、主がその人のよりどころと>なっている人なのだと、本田哲
郎さんは考えているのではないかと思うのです。心の深い所で、イエスと同じように「わが神、わが神、ど
うしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びつつ、しかし主に信頼し、主をよりどころとしなければ
生きていけない人。釜ヶ崎の労働者はそういう人たちなのではないか。そういう意味で、釜ヶ崎の労働者は
教会のサクラメントとしての洗礼は受けていないかも知れないが、十字架の洗礼をその人生において既に受
けているのだと。そういう意味で、信仰の先輩として本田哲郎さんは釜ヶ崎の労働者の方々を尊敬している
のではないかと思うのです。
・私は、本田哲郎さんのように自分も釜ヶ崎の労働者の一人として生きることは出来ませんが、考え方は本
田さんに近いと思っています。自分の欲望を満たすために、高みに上るのではなく、主に信頼し、主をより
どころとしなければ生きていくことのできない人々と共にい給う神に、私たちも連なって生きて行きたいと
思います。そのように他者を通して神に連なって生きていくならば、私たちもまた、水のほとりに植えられ
た木のように、青々と葉を繁らせ、実を結ぶ人生を生きることが許されていることに、思いを馳せたいと願
います。