今日は「父北村雨垂とその作品(179)」を掲載します。これで原稿日記「四季・第一號」は終了し
ます。後2冊になりました。そのうちの一冊には、すでにこのブログに掲載しました父の川柳の句がまと
められていますので、実質的には後1冊ということになります。
父北村雨垂とその作品(179)
原稿日記「四季・第一號」から(その17)
ウィタムウィベーレ、“生を生きる”。これは古典ラテン語の一節であるが、語学に全盲的な私を驚か
したのはこの一節に、つまり「生を生きる」と云う短い言葉の中に自覚以前の意識を原点とした成語、眞
に巧まざる原意識の現象的に全く作意なき意識の根元的発生を視る様な心境に落ち込んだことを告白して
おきたい。インドから中国に於ける禅に於ける「悟り」と並ぶ意識がこの原点を貴重な素材として構成さ
れたと観ぜざるを得ないし、亦キリスト教その他が神とし言葉を神と共に原初に見ようとした古代人の意
識に注目せぬ訳には参らぬことを識るのである。
註:これは偶然呉茂一著『ラテン語入門』中(p.44,p.127)に於いて見たままの感想である。
1983年(昭和58年)9月15日
古代ローマ人がこの生を能動相として語ったか或は受動相をしてか、この点に重大な意味が含まれてい
る点即ち文法以前の先人の発言が私には懸念されるが、現在の私には能、受の両相を一枚の表裏として古
代人の口を突いてでたものとして受取ることを佳しとした。
1983年(昭和58年)9月20日
本能は根元的生命態が環境により関係づけられた慣性現象の表徴として受けとめられる振幅が根元的生
命維持を盲目的、無意識的能動態と考えてよいであらう。そしてこの盲目的生命維持の現象を西田幾多郎
は無の自覚的行動現象として田辺元の絶対無の哲学を構成したものと私は考えている。
1983年(昭和58年)9月18日
習慣という動作は無意識に現象化する現象と考えられるが(之は心理学の領域と考える故、充分に心理
学を検討する要あることで後日と云わず調査の要あり)、正しくは無意識のうちに生起する意識的現象―
西田幾多郎等の云うノエシス以前のノエマに近い生理現象であり、それが自然現象と対照的に考えられる
「悟り」に伝波するところの自覚現象であり、換言すれば「ノエマなる原意識の働き」となる現象である
と考えられる。
註:習慣については心理学を一応調査する要あり。
1983年(昭和58年)9月25日
本稿p.131に点描しておいたラテン語の「生を生きる」なる古代人の遺した言葉に触れたが、再びノー
トして置こう。即ち「生を生きる」と云うことは、生活している個そのものがその生きている生を客観し
た意識がはじめて自己の「生」に触れた意識がフッサールの「ノエマ」であり、そのノエマが「生きるこ
と」えと云う意識即ちノエマの転換現象であるところのノエシスへとその原点なるノエマの発展的現象が
象徴された貴重な発言として受けとることが出来る。即ち生なる現象が所謂ところのノエマを内包した現
象であるところの意識とも考えられそれが同時に基体であり、西田幾多郎著に明らかにしようと企てた
「無の自覚的限定」であると、亦その後継者ともみられる田辺元の絶対無ではないかと想う。
註:戦災とその後の風水害に加えて、高血圧による身体障がい等々により当時の蔵書を盡く失ったこと
と老年の為記憶も定かでないので、前二先生の著書に同じ論考稿があったとすればそれが確かに私に大き
く影響したものとして許され度く想う。
1983年(昭和58年)10月16日