なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(191)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(191)」復刻版を掲載します。 

     
        黙想と祈りの夕べ通信(191[-34]2003.5.25発行)復刻版

 アレーテイアという雑誌に以前当教会に出席していたHさんが、宗教学者中沢新一の『緑の資本論

を取り上げて論文を書いていました。この中沢の本はしばらく前に興味を覚えて、私も読みました。イス

ラムの一神教には増殖を否定する考えがあり、利子を取ってはならないと禁じられているというのです。

そしてイスラムの世界には「無利子銀行」が設立されているというのです。無利子で銀行が成り立つもの

なのか、資本主義社会の日本で生活している私にはよく分かりません。イスラム一神教に対して、キリ

スト教は同じ一神教キリスト教の神についての教えである三位一体論には増殖の論理がセットされてい

て、キリスト教の三一論は「その構造によって、資本主義と極めて親和的である」と中沢は言うのです

(詳しくは『緑の資本論』を参照)。

 話は変わりますが、私は最近遅ればせながら宗教社会学者であるピーター・バーガーやルックマンの本

を何冊か読んでみました。それらの本は既に1960年代、70年代に書かれたものです。マックス・ウエーバ

ーやデュルケムの宗教社会学の流れになります。私は社会認識については若い時からマルクス系の考え方

に親しんでいたものですから、何となく避けていたのですが、今回読んでみて、いろいろ教えられるとこ

ろが多くありました。高度資本主義社会である日本のような社会における宗教について、特に世俗化と多

元主義との関係で、ああそうかと思い当たることも多くありました。しばらく前から、現代の様な日本の

社会の中で信仰を持って生きるということはどういうことなのか? 何となく方向性が見えてきたように

感じていましたが、バーガーやルックマンの本を読んで、そのような自分のおぼろげな方向感覚を整理す

る上で役立ったように思っています。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今日は礼拝後教会総会兇あった。この

頃礼拝には新来者、転入会者が多い。新しい試みが取り入れられて、6月から礼拝式の中の後奏や献金

あり方が少し変わり、礼拝讃美歌も、今までは讃美歌21から礼拝の讃美歌が選ばれたが、讃美歌機↓

も併用していくことになった。また、礼拝後に讃美歌練習を月一回行うことになった。今までの礼拝のあ

り方にもそれなりの理由があってのものたったと思われるが、それが変わるとなると、何故変わるのだろ

うかと会衆は戸惑いを覚えるのではないか。それぞれ求めて教会の礼拝に来ている一人一人に対するフォ

ローの必要性を感じる。そのことを教職に任せるのではなく、信徒死自主的に担っていく必要があるので

はないか? その点が気になって、総会では発言させてもらった。

 上記の発言についての捕捉を記しておきたいと思います。以前から会衆の中に礼拝の後奏について、静

かに座って聴くべきだという意見と、祝祷は派遣を意味するから祝祷と共に後奏に押し出されて退堂する

のだという意見があります。以前の当教会牧師のK牧師は後者の考えで、それ以来当教会の礼拝ではその

ようにしてきました。けれども、場所の関係もあり、後奏(派遣・退堂)中に礼拝堂でがやがや話し始め

るのが現状です。本来なら礼拝堂から出てホールですべきなのですが、礼拝堂に隣接したホールがありま

せんので、どうしても現状のようになってしまいます。それを無理やり強制して統一性をもたせるように

はしたくありません。そこで、6月から祝祷の後に短い後奏を入れ、その間会派は静かに座っていて、そ

の後派遣のことばがあり、後奏(退堂、今までのようになると思いますが)という風にすることになりま

した。献金は月定献金等も礼拝の中で捧げるようにするために(今までは月定献金は直接事務室の会計担

当者に持っていく場合が多かった)、大きめの献金籠を用意することになりました。こちらは6月第一週

には間に合いませんので、間に合い次第そうします。讃美歌機↓兇諒四僂蓮以前讃美歌21に礼拝讃美

歌を変えた時にも併用としていましたが、礼拝堂に備え付けていないと、実際には併用が難しいので、今

回から讃美歌機き兇睥蘿卞欧鉾?付けることにします。讃美歌練習は讃美歌21の新しい歌を礼拝で歌

うために月一回行うことになりました。今回の変化を踏まえて、いずれ私は「礼拝について」の説明を文

章化することにしていますので、しばらくお待ちください。


◇今日は『ルターの日々のみことば』を割愛します。

◆上記に礼拝式についてのことが記されています。紅葉坂教会時代1955年4月に私が着任してすぐに教会

の中で継続していた大きな課題が二つありました。一つは、洗礼を受けていない人も希望すれば聖餐式

与れる、いわゆる「開かれた聖餐」に道をつけることでした。これは、現在の私の戒規免職問題にも関係

していますので、このブログの読者もご存じだと思います。もう一つは、「子どもと共に守る礼拝(子ど

もと大人の合同礼拝)」です。現在も紅葉坂教会は月の第一日曜日には「子どもと大人の合同礼拝」を続

けていると思いますが、聖餐の問題と共にこの礼拝の問題にも、相当精力的に取り組んで、現在の形にし

ました。この礼拝の問題は、主に日曜学校のスタッフで取り組みましたが、同時に役員会が主導して「礼

拝を考える会」を設置し、最終的に「子どもと大人の合同礼拝」の式文を完成させました(多分完成は20

07年から2008年にかけてではないかと思います)。この式文の中に、「わたしたちの告白」を入れまし

た。この「わたしたちの告白」は、当時の伝道師と日曜学校の一人のスタッフの二人で、資料を集め、何

回も集まって検討し、原案を作成してもらいました。それから日曜学校スタッフの会と礼拝を考える会と

で、更に検討し、最終的に作り上げました。ちなみに「わたしたちの告白」の内容を下記に紹介しておき

ます。


 わたしたちの告白 

わたしたちは神さまを信じます。

神さまは 見えるものと見えないもの

すべてを創造されました。

そして今も創造のわざを続けておられます。


神さまは、イエスさまを通して ご自分をあらわされ

わたしたちを愛し、和解させ、新しくしされます。

エスさまは 弱く小さくされた人々とともに生き

十字架につけられ 死んで よみがえられました。

そしてイエスさまは 絶望の中に生きるものに

希望を与え新しいいのちへと招かれます。


神さまは聖霊によってわたしたちひとりひとりに働き

すべてのものの内に働いています。

また わたしたちの間にいて さまざまな違いを越えて

ひとつにします。


神さまはわたしたちを招いてくださいます。

エスさまとともに生きる群れ(教会)となるために

神さまがともにいてくださることを喜び、祝うために

かけがえのないいのちを大切に生きるために

他者を愛し 平和を実現するために。


いのちある時も、死の時も、死のかなたにある生においても

神さまはわたしたちとともにいてくださいます。

私たしたちはひとりではありません。

神さまに感謝します。   アーメン。