なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(193)

 今日は「父北村雨垂とその作品(193)」を掲載します。

               父北村雨垂とその作品(193)
  
  原稿日記「風雪」から(その14)

 禅と日本文化の著者であり、その他多くの禅文化を世界に照会した偉大な禅学提唱者鈴木大拙先生は、

私は西田幾多郎先生と共に尊敬の中心点にある人達であるが、その中で生死について短絡に開陳してい

る。而かも眞に当を得た禅者らしい開明である。而して私はそこから私なりの考えを(想を)陳べれば生

と死の相関関係が生命であり、言葉を換えて云えば生と死の相関関係が正しく存続する時間に於ける肉体

〔物〕から所謂プラトンが云いフッセルが受け継いだところのノエマを包含する肉体即ち「個物」と云う

ことになる訳である。而して度々に亘って述べた様にノエマからノエシスという反省的客観が生成して、

これが意識一般として象徴を形成する古代語であるところのラテン語ギリシャ語の発生したところの源

泉にも瞭らかにその痕跡が認められることは、上記の一事によっても証明されるものと私の敢えて云ひ得

るところである。
                              1984年(昭和59年)3月12日
 
 
  塵も無き 故里(ふるさと)の現在(いま)は 蒼々たり    1984年(昭和59年)3月17日


 戒名の頭に書かれてある「新帰元」に関する仏教に死者に与える戒名をその始元の意味と仏法の法に基

づく標徴としての「帰元」が仏の意味を代表していることを追求する。

                              1984年(昭和59年)3月18日


  神の性器か シャボン玉の臍

  日比后華壇に奴隷醜仕と観たは非か

  君は神の存在を肯定するか
  
  そしてその神は現在も存在しているというのか

  それとも、その神に性器があったと云うのか

  それとも、神は永遠に孤独な存在であるか

  それとも、神には父も母も無用だと云うのか


 前述に於いて屡々記した通りであるが再度考察の機会があれば、次の命題を慎重に反省する要請を改め

て記す。

 「現象という働きを内蔵する世界の内なる現象学的存在」という深淵を分析すること。
 
                            1984年(昭和59年)4月2日



  平等と鳴る 梵鐘の宙(ちゅう)を歩るき

  平等と鳴る 梵鐘を呱々(ここ)が討つ       1984年(昭和59年)4月5日

  勲章をつけた奴隷の晴れた陽や        同

  ひさびさに起ち得たら梅、二果、三果     同

  勲章を胸に 日比谷の奴隷達


 西欧哲学はその発端を形而上の学から形而下えと転換したかに考えられる程にそれが発達した〔(phil

ein愛する)と(Sophia智)との結合された智識愛、学問一般を愛する学問〕即ちそれが哲学の源泉の様

に考えられた。即ち物心両面に注意が向けられたが、特に自然が目に写り体に触れる最も摂り易い所謂身

近なところから形而下の課題に意識が向上した。而しそれは単に誤ちであったと云うのではなく、そえに

よって西欧の文化が異常に発展したと考えられ、異常と云うのは、この世界が形而下にのみ観られ、形而

上の問題はその次元としての位置におかれたところに遠因として考えられる。これは即誤りである。その

故にこの現象の世界をあくまで唯物論に意識することがこの世界現象の謎を解明することに片寄った。そ

のために物理をはじめとする科学が異常なまでに発達したが、形而上の課題は単なる謎として深く究める

ことを置き去りにした。今日の哲学者がよく云う「ニーチェ形而上学に於ける最後の歴史的存在であっ

た」と彼等自身の無明を披歴した。東洋の殊に仏教思想や中国の哲人達の意識と雲泥の差が当然の様に表

現される訳である。
                            1984年(昭和59年)4月3日