なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(204)

 説教演習を受け持つようになって、改めて説教についていろいろと考えさせられています。説教がキリ

スト教イデオロギーの垂れ流しにもなり得ますし、イエスの福音の出来事を現在的に物語る可能性でもあ

るように思われます。説教者の生き様も問われることにもなりますし、説教をするということは奇跡的な

出来事と同じなのかも知れません。

 さて、今日は「父北村雨垂とその作品(204)」を掲載します。今日は、これから鶴巻から船越に移

動します。今朝メールを開けましたら、北海道からS牧師も7月10日の傍聴と報告集会に来てくださると

の連絡がありました。これで、遠方の北海教区、関東教区、東海教区、大阪教区、兵庫教区、西中国教

区、九州教区(中部教区も?)から、7月10日の控訴審判決と報告集会に来てくださることになりまし

た。心強い限りです。ありがとうございます。


             父北村雨垂とその作品(204)
  
  
 原稿日記「風雪」から(その25)
 
 平等意識の無いところに差別は考えられないと同様差別意識のないところに平等は考えられないと同時

にこうした対象の無いところに意識の働きは肯(う)けがうことが出来ない。これと同じく差別なくして矛

盾は意識することが出来ないと同様差別も平等も意識することが出来ないと同時に現象も意識の対象とな

ることは出来ない故に現象は意識の源泉であるとも云える。

                         1984年(昭和59年)11月17日


 宇宙の動静は自然であり、この自然が世界の本態であり、歴史の母体である。キリスト教に或は哲学に

於ける「神」はこの自然の動静代名詞である。即ち自然の動静による自然の現象が生成した歴史の本態が

神であり、その源泉なる動静が現象として象徴される故に宇宙は複数の状態を維持し、それによって万般

の形体を構成する。それが仏教に於ける仏法であり、眞理として境を想像し次で次元以下の動向を指向す

る所以である。

                         1984年(昭和59年)11月19日


 禅に於いて大悟つまり悟りとは宇宙即ち大自然なる境に意識諸共に其の態を沈潜せしめて得た即ち個な

る生命そのものを全即ち全宇宙なる大自然の本態に同化眞相・・・・言葉を換えて云えば、この絶対眞理

即法に同意した体躯の自己反省であり、ノエシスに転化反省したノエマの状態を指しての大自然即宇宙を

包超(?)し得た境であると考えられる。

                         1984年(昭和59年)11月22日


 現象は非存在的存在であり、それは点や線と同様に存在という意識に於いて観る非存在であり、単なる

状態であり無時間的場を占めるところの非連続的連続の状態に於いて時間的に現象と云う無の非時間的時

間の連続態であり、非存在的な存在状態即ち「無」なる相に於いての無時間的相の連続的状態に於かる存

在を主張する「無」なる状態に於ける場の存在と云う矛盾を性として包内する場に於いて成立することに

よって意識に接触する。

                         1984年(昭和59年)11月23日


 一般に人は慾を捨てると云うが、欲望と云うものは常住持っているものでは無く、亦在る可き状態でも

無い。それ故に欲望は起こさないことその生滅する状態即ちそうした境に近寄らないこと、そうした意識

を自然と共に客観世界の内に意識の自己反省へとフッサルの云うノエマ的状態からそのノエマの反省即自

己反省なるノエシスをして斯うした境から脱出する訓練を重ねることによって言葉を換えて云えば修行を

重ねることによって意識の変異を直観の世界に迄進展すること、いわゆる意識の革命とも云うべき境界に

歩を進めること、修練を重ねることである。その故にこの事は仏教に於いて現に禅に於いての座禅、天台

に於いての止観に於いて把握しやうと努力するその生がいを懸けた修業であると云える。

                         1984年(昭和59年)11月28日


 ニーチェが『悲劇の誕生』でとらえた哲学は古代ギリシャ文学者のとらえた美学が彼等天才的生の形而

上学意識による客観に於いての純粋な意識 ― 天才的衝動意識によって生産されたニーチェ云うところ

ディオニソス的発現現象として発見したものであると私は思考する。

                         1984年(昭和59年)12月1日