なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(227)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(227)」復刻版を掲載します。今回の通信の大半ををまとめてくれ

たのは当時の伝道師です。

 今日は久しぶりにのんびりと過ごしましたので、このブログ掲載が遅くなってしまいました。

     
        黙想と祈りの夕べ通信(227[-18]2004・2.1発行)復刻版


 イラクサマワ陸上自衛隊先遣隊がついに入った。そのニュースを見ていてとにかく違和を感じた。

それは戦地に自衛隊が入ったということの違和感はもちろんあるのだが、それ以上にメディアから流れて

くるその映像である。そこには緑色の森林迷彩色の制服を着た自衛官、そして緑色の塗装が施されている

軽装甲車が映っている。イラクに派遣する陸上自衛隊員が迷彩服で活動することは先月29日に決まってい

る。その理由は通常の緑色の作業着よりも戦闘に巻き込まれた場合などに安全性が高いとの判断が示され

たからである。PKOなど過去の陸自の海外派遣時をみると、カンボジア(1992年)は緑色だったが、東

ティモール(2002年)などでも森林迷彩色の制服が用いられた。今回の決定は基本的にはその延長上だと

思うのだが、どこの国の軍隊が緑色の迷彩でイラクに駐屯しているであろうか。大抵は黄土色の山岳迷彩

である。イラクに行く自衛官、それを派遣する内閣。緑色で、あのような砂漠地帯を走っていたら目だっ

てしょうがないと思う。イラクへの自衛隊派遣は、自衛隊員の身のことまで考えられているのだろうか、

あまりにも永田町で決められたことだというほかない。今からでもまだ考えなければならないし、今だか

らこそ平和の主イエス・キリストの枝として用いられなければと思わされる。

 一人の方より以下のことが語られました。今日の聖歌隊新年会の席で、昨日NHKで放送されていた「競

演!からくり人形-モノづくりの原点は江戸にあり-」の話題となった。そこに出演されていたTさんは

名古屋にいたときのご近所の方であった。江戸時代の文化の粋である「からくり人形」は独創的な技術と

豊かな発想で今日世界を驚かせる芸術である。150年がたった今でもその技術は生きるのである。茶運び

人形の技術は今日の最先端技術にも応用されている。近所に住んでいるときはただ単に見ているだけで、

感動もさほどなかったがその人形を分解しているところを見て、その発想力に驚かされた。今日では100

万円かけても作れないと言う。人間の技が極められたところにはすごいものがある。その人形の製作者も

後世でこれほど評価されるとは思ってもいなかったであろう。人間の想像力は、物質的に満たされれば満

たされるほどに貧相になっていく。便利さゆえに不器用さ、不幸せを思わされる。障がいをもった方が、

自らの不便さを克服したときに、そこにはすごいものがある。人間の生命、そしてその意気込みを感じる

のである。この情報社会の中で、人間の姿から暖かいもの、人間のぬくもりをこの番組を見て改めて感じ

た。
                                (以上まとめ 伝道師)
 
 私は、1月の黙想と祈りの夕べをこの日(1月25日)で2回お休みしました。どちらも教区に関わる集

会が重なって、責任上そちらに私が出なければならなかったからです。この日は神奈川教区の新任教師オ

エンテイションが教区事務所であり、私も委員の一人として出席しました。I牧師による「信仰告白

戦責告白について」の発題を中心に話し合いました。I牧師は1966年の教団教師研修会に参加した一人

で、その研修会で戦争責任を明らかにしないければ、教会は宣教できないという若手の牧師の意見から、

戦責告白が出されるようになったのです。生き証人のようなI牧師の発言には説得力がありました。最近

の教団の流れは信条主義的な信仰告白の受容が強くなり、歴史的なコンテキストから教会の営みを見直す

作業が疎まれる傾向がありますので、自由に話し合えるオリエンテイションのような場は貴重に思われま

した。
   


       「自分の肢体を義の僕とする」(『ルターによる日々のみことば』より)


  あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分

  の肢体を義の僕としてささげ、きよくならねばならない。
  
                                  ローマ6:19


 あなたがたはもはや不法のしもべではないから、身体と肢体、すなわち、肉体的生活と性質をもって、

これに仕えてもならないし、従ってもならないということは、理性によってすらもわかります。そして、

あなたがた自身を、神とその義に従うためにささげたのであるから、全身全霊をもって主に仕えることは

義務であると教えます。このことは、以前には悪をなし、神のみこころと自分の良心に反して生活してい

た人もいまやできるかぎり単純、かつ、明白に、信心深く生活し、よい良心をもって神に仕えることを意

味します。パウロも、エペソ4章28節に、「盗んだ者は、今後、盗んではならない」と言っております。

 前半にパウロは、あなたがたの目、耳、口、手、足、全身、全肢体が汚れに仕ええていたと言っており

ます。同様にして、あなたがたの肢体を不法と、あらゆる悪い生き方、働き方に仕えさせていました。あ

らゆる策略とだましによって不法に不法を加えていたのです。そこで今、これらをふりかえって、あなた

がたの判断と理解に従って考えてごらんなさい。前には、あなたがたは、みだらな、わいせつなものを見

たり、聞いたり、話すことが好きであり、それらのものを追い求め肢体を汚れのしもべとしてささげてい

ましたが、いまや、それらを見聞きすると、あなたがたの耳と目は傷つきます。全身は汚れからのがれ、

ことばと行いに純潔になります。それによって、なすことにもなさざることにも、全身、全肢体は義に仕

えるのです。

 このために、あなたがたの肢体と身体はきよくなり、神のものとなり、主のためにのみ用いられるよう

になります。こうして奉仕が続けば続くほど喜びはまし、あらゆる信心深いこと、喜ぶべきこと、ほまれ

あること、徳と言われること、すべてにおいて神のほまれをあらわすために従順に仕えるもとのなるので

す。

                            ローマ人への手紙6:19-23の説教