なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(186)復刻版

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(186)」復刻版を掲載します。これは10年前のものですが、アメ

リカのイラク攻撃のことが記されています。昨日国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに行ったとき

に、いつもこの座り込みに来ている反原発の運動を最初期のころから担ってこられた方が、今イラクでは

湾岸戦争の時とは比べ物にならないくらいにイラク全土にジュニア・ブッシュが劣化ウラン弾を撃ち込ん

だために、チェルノブイリーと同じように子供たちの健康被害が問題になっているとおっしゃていまし

た。福島の子供たちのことと共に、イラクの子供たちのことも覚えていかなければならないと思わされま

した。


         黙想と祈りの夕べ通信(186[-29]2003.4.20発行)復刻版

 今日(13日)は、礼拝後にN教会の牧師就任式の司式を引き受けましたので、N教会に伺いました。

私も制度的なことはよく分からないのですが、牧師就任式は教区の常置委員会で諮られ、それぞれの教会

からの要望を受けて司式者を決めて派遣するということのようです。私は常置委員の一人で、今回N教会

に牧師として就任されるKさんに頼まれて、引き受けました。N教会へは今回はじめて行きました。就任

式の後の茶話会が幼稚園の園舎で行われましたが、その時に隣の席にO教会のT牧師がいらっしゃいまし

た。T牧師は以前N教会の牧師を経験していて、N教会の歴史についてよく知っておられ、私に話してく

れました。今幼稚園がある土地は信者の方からの寄付で、その信者の方の願いはそこに教会が建つことだ

ったということです。しかし、その土地には幼稚園が建ちました。現在も園児が160名位いるそうです。

教会はその幼稚園に併設して片隅にあるという感じです。一号線からしますと、海側にちょっと入ったと

ころです。N駅から数分ですが、人目にはつきにくい場所ですので、新しい場所に教会堂を移そうという

会堂建築の計画があるということです。全体にN教会の信徒は年配の方が多く、また少人数で、会堂建築

となると、大変な荷を負うことになると思われます。私たちは所属する神奈川教区の諸教会の中に、N教

会のように教会がその土地で宣教の課題を担って活動を続けていることを覚えて行きたいと思います。

 上記の私の発言に続いて一人の方からの発言がありました。今日の礼拝で、緊急のヨコスカ集会の報告

があった。その時に、「もう戦争終ってしまうのでは」という声があった。以前にイラク戦争抗議のデモ

に参加したとき、これは何になるのかと考えながらデモした。戦争が終わった後、イラクはどうなるのだ

ろうか。日本の戦後のことを考えながら、そう思った。横須賀の米軍基地ゲート前で、そこを通る米軍の

兵士に戦争反対の声を出すことが、回りまわってイラクに通ずるのではないかと、ふと、思った。見えな

い神を信じる者として、平和は見えないものかも知れないが、信じて伝えたいと思い、ヨコスカの抗議集

会に参加したいと思った。人間の出来ることはわずかだが、声を発することになり、米軍の人を通してイ

ラクにつながり、何らかの形で平和への思いが伝わればと思う。

 また、もう一人の方の発言がありました。今日は牧師である父がD教会の講師で青森から出て来たの

で、以前自分も出席していたことのあるD教会の礼拝に出席した。礼拝後先日召された、D教会の教会員

であったSさんの訃報は2月22日に聞いた。2月初めに入院して、急に亡くなったのでD教会の諸兄姉はシ

ョックだった。2月24日に前夜式、25日に告別式がD教会で行われ、自分も出席した。式には元首相のM

氏はじめ著名な人も出席していた。全国各地からかけつけてきた人もいた。惜しい人を天に送ったと思

う。

 イラクで戦争が始まったとき、ショックを受け、どうなるか恐れた。今戦争が終わったわけではない

が、現在の状態になって来て、よかったと思う。今日は婦人会でのんびりと参加していたら、突然Kホー

ムの奉仕グループの報告を求められ、びっくりした。今年11月にKホームは移転する。それに伴って私た

ちの奉仕グループも対応を迫られるだろうが、どうなるかわからないが、ボランティアの中には一人でも

行くわ、という人もあり、出来たら続けたいと願っている。


  
        「水と霊による再生」(『ルターの日々のみことば』より)

 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国

 にはいることはできない」。
                            ヨハネ3:5

 まず、水と霊とから新たに生まれなければ、神の国にはいれると考えてはなりません。わたしたちが新

たに生まれなければならないとは、実に強くきびしいことばです。これは義に生まれるために、罪の生か

ら出なければならないことを意味します。そうしなければ、決して天国へはいることはできないのです。

この新生、すなわち、義認からだけ、よいわざは続いてやってきす。

 これらのことについて、主キリストはニコデモと話されましたが、彼は理解することができませんでし

た。人が霊から新たに生まれ、これを体験することがなければ、決して理解できないことなのです。

                             ヨハネ福音書3章の講解