今日は「父北村雨垂とその作品(197)」を掲載します。
父北村雨垂とその作品(197)
原稿日記「風雪」から(その18)
宮城音弥著『心とは何か』の中で書いているp.56の10行以下の欧米の一部の心理学者の見解は東洋に
於ける禅者が指摘するところの「無」或は「空」とも措定する命題であり、西田幾多郎とそれにつづく田
辺元等の無とか絶対無ともなり、その自覚的限定として展開する論理が前記の彼等が心理学を哲学から離
れ人間のもつ意識を他の一部動物を駆使してそれを客観的に科学本来の構造に於いて究明する手段を採っ
たことは、それだけで西欧思想の極めて顕著な一発展と観ることができる様に考えられる。尚この一項は
あながち東洋に於ける禅と限らず、正常なる宗教が一様に宣言する「行」を強要する源泉と私は確認す
る。即ち西欧哲学も古代から言い伝えられている「力」も禅者の探求による「無」或は「空」と同様、人
類の持つ五感「眼、耳、鼻、口、触」を超えて把握した無であり空である絶対存在が西欧哲学から分離し
た形態を採る科学的心理学即ち客観的構造による「心」の本態をとらえ様とする姿勢に同意を用意する段
階に来たものと、私は考えるものである。
1984年(昭和59年)6月20日
吾々の現存する世界は宇宙の一部とすれば、その宇宙とは、その本態は無型である。即ち縦も横も全く
無い巾も厚味も無い。言葉を換えて云えば、長短を超えた「無尺(むしゃく)の尺(しゃく)」を本体とする
領域と云うことである。
それと同様に時間も無い即ち「現在」と云う一点を吾々に表象を与えるだけで、その前後即ち過去も未
来も無い一点、これを言葉を換えて云えば「無時間の時」と云う。無型の点とでも云う一点即ち長短を超
えた無型の点を本態とする無時間の存在、これも換言すれば永遠なる「現在点」とでも云うべきである。
故に図(省略)によって示せば、円の中心が吾々の現在を型成する吾々の世界の構成である。そしてそ
の一点が同時に吾々即「吾」であり、吾が「精神」の存在する「無型の点」である。「吾れ」と云う意識
であり、この無型の意識の自覚による「精神」であり、従って精神も当然の理として無型の型態と命題す
ることを承認することとなる。
1984年(昭和59年)6月21日
視たか「こころ」が 在ったか霧(ゆめ)のプリズムが 1984年8昭和59年)6月20日
現象の公道は次の通り
因果→秩序→自然→現象
(因果から赤線→、現象から赤線→、その間に無門(ムモン)と書かれている)
弥陀の掌に降る 寂光や女郎花 1984年(昭和59年)6月29日
悔も無き葦の 指紋置き去りに 1984年(昭和59年)6月30日
人が「にんげん」で在ったことの悲劇はその第一に知恵が未完のままの型で持ちつづけていること。完
結した知恵は「夢の世界」なる彼方迄にしか来なかったこと。「眞理」と云う言葉の化けものの在り様を
誤まって認識し完せていて本物の眞理には、それを見当てる目を惜しんで使う努力を忘れ終せていたこ
と。即ち人間の知恵はほんとうの眞理を偽せものの眞理との分別がつかなかったこと。否、それを分別す
ると云う本ものの知恵の持ちあわせて居なかったことであった。そしてその欠陥だらけの知恵だけで「無
傷の知恵」を持ち合わせていなかったことが「意識の反省」 ―これを私はノイエシスと観ている―
が、そこまでに至らなかった。即ち未完の知恵に不満を感知しなかった。意識即ノエマの働きの未完がそ
れに尽きるものだと考えるに至った。
1984年(昭和59年)6月27日
午前10時10分