なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(218)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(218)」復刻版を掲載します。約10年前のものですが、下記

の中に、私が自分の人生の終わりを意識して、牧師として働くのも後10年前後ではということを記

しています。その10年後は現在になります。私は、教団からは免職されていますが、現在も船越教

会で牧師としての働きを続けています。船越教会は免職された私を牧師として受け入れてくれてい

るからです。免職撤回の裁判も継続中ですので、裁判の結果がでるまでは、このままで活動をして

いきたいと思っています。
 

       黙想と祈りの夕べ通信(218[-9]2003.11.30発行)復刻版

 今日は教会歴によりますと、終末主日になります。11月30日はアドベント第一主日で、教会

歴ではアドベントから新しい一年の始まりになりますので、今が一年の最後ということになりま

す。この頃、ふと自分の終わりについて考える時があります。いつもいつもではありませんが、日

常生活の中にある間(ま)のようなときに、ああ自分は教会での牧師としての働きも後10年前後の

時間かなあーと思うことがあります。つまり自分の終わりを意識するようになりました。若いとき

にはなかった自分の中の心の動きです。終わりを意識するからあと言って、特に今までの自分の生

き方が劇的に変わることもないと思います。ある意味では、淡々と進んでいくと思います。ただ現

在の社会状況から推察しますと、何らかの形でキリスト者としての存在を問われることになるので

はという思いを密かに持っています。これは、キリスト者にとりましては、特に厳しい時代だけに

限らず、日常的にも本質的には内在する課題ではないかと思いますが、イエスの十字架をになうと

いうことです。福音書におけるイエスは、十字架に極まる生涯を歩まれた方だと思います。最後の

文字通りの磔刑としての十字架だけでなく、そこに至るプロセスのすべてのイエスの言行にも、十

字架と結びつく何ものかが付着していたと思われます。この世における神の国の現われは、十字架

を通して生起するように思いますが、そのような十字架を私もになえたらと祈りつつ、見えてきた

自分の終わりに至るまで黙々と歩み続けたいと思っています。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。この黙想と祈りの夕べに来る直前

にHさんから電話があった。「大変失礼ですが、平凡な家庭の主婦には分からないけれども、天才

の人が周りの人たちに理解されない点があるが、僕は自分の性格でいろいろな人とトラブルを起こ

してしまうのですが、嫌ですねー!」とHさんは言った。今まで9年間Hさんの電話を聞き続けて

きたて、腹が煮えかえるときもあったが、Hさんの自己分析を語る言葉を聞けて、うれしかった。

集会がありますので、これで電話を切らせていただいていいですが? い言ったら、Hさんは、失

礼しました、と言って電話を切った。今日のような応答がずっと続くかは分からない。また調子が

よくなくなれば、攻撃的になるかも知れないが、今まで、私は彼が自分自身のことに気づくように

なって欲しいと、祈りながら電話を聞き続けてきた。また彼からいろいろ学ばせられたし、貴重な

存在だと思わされてきたので、そういう彼から、今日は自分自身をみつめている言葉を聞けて、う

れしかった。彼が自分をみつめつつ、他の人と関わりが出来るようになればと思う。

 また、一人の方からこのような発言がありました。このところニュースでテロや不安定なニュー

スが伝えられている。イエスは議論を激しくしたが、殴り合いになりそうになったとき、イエス

自分から身を引いた。イエスは険悪な状況に留まり続け、そこに参加しなかった。昨年の9・11

後に、ノム・チョムスキーが、「参加しなかったらいい」と言った。その言葉に対して、自分だけ

孤立していていいのかという批判はあるが、争いに関与し参加することによって悲劇が起こる。

「参加しなければいい」という言葉に、自分も最初は了解できなかったが、単純なことの中にある

真理性に気づかされた。議論の中にありながら、殴り合いを避けて、身を引いたイエスに活路が開

けないかと思う。

 また、別の人からの発言がありました。長い間続いたKホームの奉仕は、今日ボランティアに交

通費を渡して、すべて終わった。自分は先輩のボランティアの思いを聞いて、先走らずに一歩みん

あの後からついて行こうと思い、そのように関わって来た。11月20日の新しいKホームの竣工

式に参加し、これからのホームと入居者のお年寄りの方々が静かに生活できるように祈っている。

Kホームのボランティア奉仕が気持よく終えられて、感謝している。



      「キリストの勝利」(『ルターによる日々のみことば』より)

 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利

 を賜ったのである。            第一コリ15:57

 
 聖パウロは、二種類の勝利について語っています。第一は、最初の人アダムから世の終わりに至

るまで、全人類を征服し、威張っていた死の勝利である。この勝利については、彼はローマ5:1

2に、「ひとりのひとによって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、

こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」と言っています。

これは死の勝利であり凱歌であって、死が罪によって支配し、すべての人々に力と権威を持ちま

す。ですから皇帝であれ、王であれ、君侯または領主であれ、しまも彼がたとえ富裕であり強力で

あり偉大であっても、この死が彼を支配することを認めない人はありません。

 もうひとつは、生の勝利です。これはキリストにおいて、キリストにより支配するものであっ

て、死に打ち勝っています。この勝利についても、パウロはローマ9:17に「もし、ひとりの罪

過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵

みと義の贈り物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、

さらに力強く支配するはずではないか」と言っています。これは生の勝利であり凱歌であって、キ

リストにあって生が支配し、死に対して勝利を得るのです。そこでこの死はキリストだけでなく、

キリストにおいて洗礼を受け、キリストを信ずる者にも力がありません。使徒がここで言っている

のは、それです。彼の言う意味はこうです。死は地に伏しています。死はその王国、権力、勝利を

失っています。万軍の主である神は、死の王国とその勝利に対して、キリストによる死からの復活

という別の勝利をもたらされます。ここに純粋の生があって、死はありません。死はキリストによ

って征服されて、自ら死んでいます。生は勝利を勝ち取り、それを保持しています。

                                1545年の説教から