12月25(日)降誕節第1日礼拝(10:30開始)
(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。
⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま
しょう(各自黙祷)。
② 招きの言葉 「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ高低のある地は平らになり、険しい所は平地になる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。」
(イザヤ書40:4-5)
③ 讃美歌 268(朝日は昇りて)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-268.htm
④ 主の祈り (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。
⑤ 交 読 文 詩編98編1-9節(讃美歌交読文107頁)
(当該箇所を黙読する)
⑥ 聖 書 フィリピの信徒への手紙2章1―13節(新約362頁)
(当該箇所を黙読する)
⑦ 祈 祷(省略するか、自分で祈る)
⑧ 讃 美 歌 265(天なる神には)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-265.htm
⑨ 説 教 「恐れおののきつつ」 北村慈郎牧師
祈 祷
今年もクリスマスを迎え、イエスさまの誕生を祝い喜ぶことができますことを、心から感謝します。
私たちは毎年こうして暖かな教会堂で礼拝を捧げ、クリスマスをお祝いします。このことは素直に喜ぶべきことではないかと思います。けれども、イエスさまの誕生という出来事は、大変厳しい状況の中で起こったことを、私たちは福音書のイエス誕生物語を読む度に考えさせられるのであります。
まず身重のマリアがヨセフと共に、ローマ皇帝アウグストの命令により、ヨセフの故郷ベツレヘムに住民登録のために行かなければならなかったということです。マリアは、旅の途中でありました、住民登録のために行ったベツレヘムで出産しなければなりませんでした。しかも、宿屋には二人のいる余地がなく、馬小屋での出産でした。
福音書のイエス誕生物語では、その馬小屋でのマリアの出産をみ告げによって知った羊飼いたちや東方の博士たちが馬小屋にやってきました。この場面には、イエスさまの誕生がただ厳しいだけではなく、神さまによるもので、全世界の救いがここから始まるのだという、不思議な喜びが響きます。
けれども、イエスの誕生を知ったヘロデ大王は、将来自分に代わってユダヤの王になるかもしれないイエスを殺そうとし、事実イエスと同じ頃生まれた男の子を沢山殺しました。イエスはヘロデの難を避けてエジプトに逃げて、しばらくエジプトに滞在しました。ここにも、イエスの誕生の大変厳しい一面が示されています。
そもそも何故イエスの誕生を福音書の物語作者は、静かに家族の喜びの中で赤ちゃんが誕生するという、私たちの多くが経験する赤ちゃんの誕生とは違って、このように厳しく描かなければならなかったのでしょうか。
それは、イエスの誕生に十字架に架けられて殺されたイエスの姿が反映されているからでしょう。イエスの誕生物語は十字架のイエスの誕生物語なのです。イエスの誕生を描こうとする時に、物語作者は十字架を無視できなかったのです。それ故に、イエスの誕生が神の救いの出来事として、羊飼いたちや東方の博士たちのように心から喜び祝った人々がいた反面、ヘロデのように祝うどころか、抹殺しようとした人もいたことを描いているのだと思います。
先ほど司会者に読んでいただきましたフィリピの信徒への手紙2章1節以下、特に6節以下は、「キリスト讃歌」と言われている箇所です。恐らく初代教会の中で生まれたもので、フィリピの信徒への手紙を書いたパウロも言い伝えられていた伝承の一つとして受けたのでしょう。
パウロはこの「キリスト讃歌」を伝承として受けて、フィリピの教会に当てたこの手紙の中に取り入れたのです。そこにはこの「キリスト讃歌」をパウロがどう受け止めたのかが、自ずから手紙の文脈において明らかになっています。
キリスト讃歌の前の文脈では、「へりくだり」ということが強調されています。フィリピの教会の信徒たちに向かって、パウロはキリストに結ばれて一つになったあなたがたは、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、へりくだって、めいめい自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい」(3-5節)と勧めています。その後に、「それはキリスト・イエスにもみられるものです」(5節)と言って、キリスト讃歌に続けているのです。
ですから、キリスト讃歌の前の文脈からすれば、お互いの関係における「へりくだり」がテーマとなっていることが分かります。そしてこの教えは初代教会において大切にされていたものと思われますし、それをパウロがここで繰り返しているだけで、特にパウロの独特な教えというわけではないと思われます。
けれども、12節以下では「従順」がテーマになっています。「キリスト讃歌」を受けて、「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(12節)と勧められています。キリスト讃歌の前の文脈では、「へりくだり」が強調され、その「へりくだり」は他者である隣人との関係のあり方として勧められていますが、ここでは、他者である隣人との関係ではなく、自分自身の「救いの達成」が問題になっています。
その際、ここでの「従順」は神への従順です。パウロは13節で、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」と言っています。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」とは、キリスト教の歴史では「内在のキリスト」とか「内なる光」とか言われてきましたように、私たち個々人の魂に働きかけて、私たちを内側から変えてくださる聖霊なる神の働きへの信仰です。
パウロはこのところを「十字架に至るまで従順」であったキリストの従順を思い描きながら語っていると思われます。
今日はお読みしませんでしたが、14節以下も読ませていただきます。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(14-16節)。
「キリスト讃歌」を「(神への)従順」というテーマにつなげて、このように語っているところは、初代教会の教えの継承というのではなく、パウロ自身からのものではないでしょうか。
パウロは神への従順を、イエス・キリストの「十字架の死に至るまでの従順」を想起しながら、このところを語っているのではないかと思われます。17節では、「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」と語っています。ここに「わたしの血が注がれるとしても」と言われていますが、これは明らかにイエスの十字架へのパウロの追随を意味していると思います。
パウロはイエスの十字架を罪の贖いとして神学的に理解するだけではなく、自らもイエスの十字架を担って苦しむことが、イエスに従う信仰の必然として理解していたのです。
フィリピ3章10-11節には、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみに与って、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者からの復活に達したいのです」と語っています。パウロはここで「(キリスト)の苦しみに与って、その死の姿にあやかりながら」と言って、イエスの苦しみと死であるイエスの十字架に与るということをはっきりと語っているのです。
このように「(わたしたちの)内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられる神」への「従順」を貫くことによって、私たちは「よこしまな曲がった時代の中で、非の打ち所のない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」ことができるのです(15節)。
関田先生も晩年の自らの生き方について書いている文章の中で、口語訳のピリピ人への手紙1章20節「そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである」に触れて、このように記しています。「ここで冒頭に掲げた聖句について黙想したい。『喜びの手紙』と称されるピリピ人へのパウロの手紙は晩年の、しかも獄中で書かれた手紙である。彼が『切実な思いで待ち望むことは、わたしがどんなことがあっても恥じることなく…』と告白する所に私は深い共感を憶えるのである。私自身の生涯を回顧する時、恥多き躓きを残した経過であった。それはひとえにキリストのとりなしの憐れみによって生かされてきた道であった。今、病と弱さを得て思うことは、『生きるにしても死ぬにしてもこの身によってキリストがあがめられること』以外に生きる意味がないということだ。そこに主の前に『独り生きること』の恵みと喜びを思わざるを得ない。かくて残された生(今なお約束されている生と言うべきか)の内容は、罪のゆるしと傷の癒しを与えられた者として、使命に生きること以外にないのである」。
今年のクリスマスの礼拝では、私たちの心の内に働きかけてくださり、神の御心のままに望ませ、行わせてくださる神への従順を改めて確かなものにしたいと願います。この神への従順によって、パウロが確信していますように、私たちも何よりも「よこしまな曲がった時代の中で、非の打ち所のない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保って」歩んでいきたいと切に願うものであります。
「主よ。あなたは貧しく、みすぼらしいわたしの人生のうちにやどり、おりにふれてわたしを動物的な感情の支配から引きあげ、あなたの愛と喜びと平和の光によって輝かせ、見えざる世界の美しさをうつし出す鏡としてください。どうか、この日、わたしの生活があなたの臨在の輝きをくもらせることなく、かえってそれを人びとの目の前に照り輝かせるものとしてください」(ベイリー『朝の祈り・夜の祈り』より)と祈りつつ。
祈ります。
- 神さま、今日も会堂での礼拝を行うことができ、心から感謝いたします。
- 今日はクリスマスの礼拝です。イエスの降誕の物語の中に反映されている十字架のキリストを思う時、イエスが十字架に至るまであなたへの全き従順に生きたことを思わざるを得ません。パウロは、そのキリストの十字架によって罪赦されて生きる恵みに感謝し、自らイエスの十字架を担う者として従順に生きていきました。
- 神さま、私たちもまた、罪赦された者として、どんなに貧しくとも、あなたの愛と喜びと平和を輝かせて生きていくことができますようにお導きください。
- このクリスマスの喜びが、世界のすべての人々に、特に社会的に弱くされている貧しく、抑圧されている人々、病を抱えている人々に豊かに与えられますように。
- 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
- 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
- この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。 アーメン。
⑩ 255(生けるものすべて)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-255.htm
⑪ 献 金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)
⑫ 頌 栄 28(各自歌う)
讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm
⑬ 祝 祷
主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。 アーメン
⑭ 黙 祷(各自)
これで礼拝は終わります。