『大きな喜び』ルカによる福音書2:1-20,
2022年12月24日船越教会キャンドルサーヴィス説教
1、恐れを恐れる
- ルカ福音書の有名な降誕の物語には、「恐れ」のモチーフが現れます。
- 羊飼いという職業の人々は、定住する自作農や手工業者から見れば、しばしば自分たちの土地に無断で入り込み、通り過ぎて行く人々であったからでしょう。羊飼いは、当時のユダヤ教社会では「泥棒」「嘘つき」と見なされていました。裁判の証言に立つ資格も認められていなかったようです。
- その羊飼いたちが夜中に羊の群れの番をしながら野宿していた時に、一人の天使が近づき、主の栄光が彼らの周りを照らしました。その時羊飼いたちは「非常に恐れた」とあります(9節、ギリシャ語原文は「大いなる恐れを恐れた」)。
- 羊飼いたちは社会の意思決定のプロセスからは排除された人々でした。宮殿と軍隊を所有し、外国の支配者と縁戚関係を結び、税金を取り立てる王とは違います。神の意思を解釈し、民に告知する立場にあった祭司たちとも違います。羊飼いたちは、自分たちの運命を自らの手の中に持っていません。「野宿をしながら」という表現は、頭の上に雨露をしのぐ屋根をもたない仕方で生活する。現代風にいえば、「路上生活を送る」という意味に理解することもできるでしょう。
- その彼らに「主の天使」が現れ、まばゆい輝きが彼らを照らしました。それは自分で自分を守る術(すべ)をもたない人々にとっては、ほとんど本能的に「恐れ」の感情を呼び覚ます出来事だったに違いありません。
2、二つの「福音の始まり」
- 天使は言います。「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(10節)。
- ここで「告げる」と訳されている言葉は、ギリシャ語の原文では、「福音(エウアンゲリオン)」という単語の動詞形です。「大いなる喜び〔の福音〕を告げ知らせる」と訳すことが可能です(岩波訳)。「福音」という言葉は、原始キリスト教会がキリスト教の中心的なメッセージを一言でいい表すために使いました。その内容はキリストの死と復活です。
- ところが興味深いことに、この「福音」という語は、ローマ帝国における皇帝礼拝においても使われました。現在のトルコ、小アジアの都市プリエネから出土した紀元前9年に発令された暦の勅令に関する碑文があります。小アジアの諸都市が、皇帝アウグストゥスの誕生日である9月23日を「元旦」とする決定を下した経緯がそこに記されています。
- この碑文では、ローマ皇帝アウグストゥスが平和をもたらす世界の「救い主」であり、神なる皇帝の誕生日が世界にとって新しい時代の幕開けを告げる「福音」の始まりであると、かなり仰々しい言葉で主張されています。
- では、ルカ福音書の天使は、羊飼いたちになんと言ったのでしょうか。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜び〔の福音〕を告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(2:10-11)。
- いったい「救い主」とは誰なのでしょうか。皇帝アウグストゥスでしょうか、それともベツレヘムの赤ん坊でしょうか。そして何が「福音」の始まりなのでしょうか。ローマ皇帝の誕生日でしょうか、それとも羊飼いたちが祝った馬小屋のクリスマスでしょうか。
- ルカ福音書の誕生物語が、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た」(2:1)というエピソードで始まるのは、おそらく偶然ではありません。この物語では、「世界の救い主」と讃えられた皇帝アウグストゥスが、全世界に向けて人口登録を命じます。もちろんそれは、民衆から税金をしぼり取るためです。しかしこの圧制的な命令は、神によって、ダビデの町ベツレヘムにおける真の世界救済者の誕生を演出するために利用されるのです。
- 「この方こそ主メシアである」という天使の言葉には、〈イエスこそ主である、ローマ皇帝ではない〉という響きがあります。
3、「福音」のしるし
- 牧草地を転々し、地域共同体から半分排除されたような仕方で、野宿しながら生計を立てていた羊飼いたちから見れば、住民登録を命じるローマ皇帝が、どうして「世界の救い主」などでありえたでしょうか。そんな皇帝の即位が、どうして「福音」などでありえたでしょうか。
- さらに言えば、今日ダビデの町に生まれたと天使のいう「救い主」が、たんにもう一人の新しいローマ皇帝であったとしたら、それは新しい戦乱を予感させるものであったに違いありません。天使が「この方こそ主メシアである」と告げる者は、どのような意味でほんとうの「救い主」「福音」なのでしょうか。
- 古の預言者イザヤは、平和の時代が到来することを期待しつつ、つぎのように語りました(イザヤ9:1,4-5)。
- 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。 ・・・・・・・・ 地を踏み鳴らした兵士の靴、血まみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。一人のみどり子が私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。権威は彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」
- ここでは、一人の男児の誕生に託して、戦争の終結と平和の始まりが歌われています。しかし、ローマ皇帝アウグストゥスについてもまた、彼は「戦争に終わりをもたらし、平和を作り出した」と言われたのでした。では、真の平和とはなんでしょうか。私たちの天使は、羊飼いたちにこう告げました。
- 「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2:12)。
- この小さな赤ん坊のどこが、何かの「しるし」なのでしょうか。この子は、なんの特別な輝かしさも持ち合わせていない、ただの貧民の赤ん坊です。注解書を読んでも、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」という表現に、旧約預言の成就といった特別なシンボリズムはどうやらなさそうです。ですから、この表現はそのまま受け取るのがよいでしょう。
- 布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子が「しるし」であるとは、おそらくつぎのことを意味するのではないでしょうか。すなわち、さまざまな恐れのなかにある、いと小さき者の、傷つきやすく柔らかな命こそが「福音」のしるしなのだ。この世界で小さくされた者たちの命こそが、神の命の最も純粋な現れなのだ、と。そして実際、イエスの生は、小さくされた人々の悲しみや喜びに寄り添う者としての歩みでした。
- 「この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)。その乳飲み子イエスの誕生を心から喜びたいと思います。
祈ります。