なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

2019年クリスマス燭火礼拝説教

 

「片隅から始まる」ルカ福音書2:1-20、

                                       2019年クリスマス燭火礼拝説教

・ 先日関田寛雄先生から、船越教会から送りましたクリスマス・カードのお礼のお葉 書をいただきました。その中に、「今年のクリスマスは中村ドクターのことを覚えたいと思います。」と書いてありました。12月4日、この日はちょうど私の誕生日でしたが、中村哲さんが銃撃を受けて亡くなりました。ご存知のように「中村哲さんはアフガニスタンで農地の再生などに取り組んでいる福岡市のNGO「ペシャワール会」の現地代表の医師です。福岡市出身で35年前、パキスタンペシャワールに赴任したのをきっかけにパキスタンと隣国のアフガニスタンで医療支援を行ってきました。16年前からは干ばつで苦しむアフガニスタンの人たちを助けようと用水路の整備など、農地の再生にも取り組んできました。・・・2009年には「福岡市市民国際貢献賞」を贈られ、中村さんは授賞式でアフガニスタンの状況について、『干ばつが難民化を招き治安が悪くなっている。医療活動以前の問題だ。水と食べ物があればほとんどの病気が予防できるので、干ばつ問題に取り組んできた』」としたうえで、「治安の悪化で一時的に活動ができなくなるかもしれないが、現地での仕事は続けていきたい」と話していたと言われます。それから10年後にご本人が危惧された治安の悪化の中で銃撃を受けて亡くなったことになります。中村哲さんは、平和な世界、全ての人が生きることのできる世界を目指して、アフガニスタンで活動されたのです。

・ 中村哲さんはクリスチャンですが、彼が活動したアフガニスタンの人々はイスラム教徒でしたので、彼ら彼女らの信仰を大切にしたようです。モスクの建設を手伝ったこともあるそうです。紛争や干ばつによって命と生活が脅かされている人々がアフガニスタンにいるので、彼ら彼女らに寄り添って手助けしたいとの思いで活動を続けられたのではないかと思います。

 

・ 関田先生がおっしゃる、今年のクリスマス、イエスの誕生の意味を想い起すこの時に、「中村ドクターのことを覚えたい」とは、どういうことなのでしょうか。私なりに考えてみました。

 

・ 預言者イザヤは、平和の時代が到来することを期待しつつ、つぎのように語りました(イザヤ9:1,4-5)。 「・・・・・・・・ 一人のみどり子が私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。権威は彼の肩にある。/その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」と。/地を踏み鳴らした兵士の靴、血まみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。/「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。

 

・ ここでは、一人の男児の誕生に託して、戦争の終結と平和の始まりが歌われています。しかし、ローマ皇帝アウグストゥスについてもまた、彼は「戦争に終わりをもたらし、平和を作り出した」と言われたのでした。「パックス・ロマーナ」と言われている「ローマの平和」です。これは権力者が上からつくり出す平和で、実態としては武力による世界統一を意味しています。ローマが軍隊で制圧した地域は、ローマに逆らう国がなくなり、全ての国がローマの属国となりますので、戦争がなくなります。それを「ローマの平和」と言うのです。そのローマ帝国が支配する地域に生活している人々は、特にイエスが誕生したユダヤの国のように、ローマ皇帝アウグストゥすとユダヤの国の王ヘロデによる二重支配を受けて苦しんでいたのです。そのような人々にとっては、「ローマの平和」は真の平和ではなく、偽りの平和以外の何物でもありませんでした。

 

・ 真の平和とはなんでしょうか。ルカ福音書のイエスの誕生物語の中では、天使が羊飼いたちにこう告げています。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2:12)と。布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子が「しるし」であるとは、おそらくつぎのことを意味するのではないでしょうか。すなわち、「さまざまな恐れのなかにある、いと小さき者の、傷つきやすく柔らかな命こそが「福音」のしるしなのだ。この世界で小さくされた者たちの命こそが、神の命の最も純粋な現れなのだ」と。そして実際、イエスの生は、小さくされた人々の悲しみや喜びに寄り添う者としての歩みでした。

 

・ 「この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)と、ルカ福音書は告げているのです。このようなイエスの誕生を想い起し、その意味を噛みしめる時がクリスマスのときではないでしょうか。

 

・ イエスを信じるということは、イエスを神に祭り上げて、キリスト教を吹聴することではありません。イエスの存在とその生きざまに触れて、私たち自身が小さなイエスとして隣人である他者と共に生きて行くことです。その隣人が仏教徒であろうと、イスラム教徒であろうと、そのこと自身が共に生きる障害になることは、イエスを信じる私たちの側には何もありません。

 

・ 中村哲さんは、小さなイエスとして紛争と貧困の中で苦しんでいる小さくされたアフガニスタンの人々と共に生きられました。この中村哲さんを今年のクリスマスに覚えることは、イエスの誕生を想い起し、その意味を噛みしめるクリスマスの時に、まさにふさわしいことではないでしょうか。

 

・ 私たちは中村哲さんと同じようには生きられませんし、生きる必要はありません。それぞれが与えられています場で、隣人である他者との関りの中で、この世で最も小さくされた者とご自身を同定されているイエスが、「はっきり言っておく。わたしの兄弟(姉妹)であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)と言って私たちを招く、そのイエスの招きに私たちなりに応えていきたいと願います。

 

・ メリークリスマス!

 

・ 祈ります。

  • 平和の神さま、今年もイエスさまの誕生を憶え、その意味を噛みしめるこのクリスマスを迎えることができましたことを、心から感謝いたします。今過日銃弾で倒れて、返らぬ人となりました中村哲さんを覚えつつ、共にクリスマスの意義を想い起すことができました。み心ならば、平和と安心して暮らすことのできる社会が、ますます遠のいていくかに思われます、この社会の現実にありまして、イエスの与えてくださった平和と喜びと正義に満ちた神の支配を求めて、私たちも隣人と共に生きていけますように、導き支えて下さい。今苦しみと悲しみの中で重荷を抱えて生きている方々を慰め、癒してください。

   この祈りを、イエスさまのお名前を通してみ前にお捧げ致します。 

                               アーメン。