使徒言行録による説教(97)使徒言行録28:11-16、
・船が難破して、船に乗っていたパウロらがマルタ島に上陸したとき、恐らく「3か月後」(11節)にはこのマ
ルタ島からローマに向かって船に乗って出港することができると思えた人は誰もいなかったのではなかったの
ではないでしょうか。命からがら島に上陸して、助かったばかりでしたから。難破してマルタ島に船に乗って
いた人々が上陸したのは、11月の始め頃だったと思われますから、11月、12月、1月の3か月間パウロらは
マルタ島で過ごしたことになります。
・その間、前回学びましたように、パウロによる蝮の奇跡や病者の癒しによって、マルタ島の人々は、パウロ
らに<深く敬意を表し、船出のときには、必要なものを持って来てくれた>(28:10)のです。パウロらは難破
で着の身着のまま島に上陸したので、すべての物を失っていたからです。当時冬の間風の影響でできなかった
航海が、2月7日から航行可能な季節になったということですから、おそらく百人隊長は<3か月後>の2月初め
に、利用できる最初の船である、マルタ島で冬を過ごしたアレキサンドリアの船を用いて、囚人護送の任務を
果たそうとしたに違いありません。
・アレキサンドリアは、アレキサンドロス大王(在位前336年~323年)によってエジプトに起こされた町であ
り、そのアレキサンドリアの船は、当時ローマの穀倉地帯になっていましたエジプトの穀物を、アレキサンド
リアからイタリアに運ぶ船であったと思われます。そのようなアレキサンドリアからイタリアに穀物を運ぶ商
船が、当時地中海を往来していたのでしょう。
・このアレキサンドリアの船には、船乗りの守護神とされていましたカストルとポルックスの像が、船飾りと
して船首に掲げられていました。このカストルとポルックスはギリシャ神話においてゼウスの双子とされてい
ました。それが28節の<ディオスクロイを船印>であり、<ディオスクロイ>とは、「ゼウスの息子たち」と
いう意味です。
・マルタ島の港を出航した船は、150キロ北にあるシシリー島のシラクサまで行き、一日の行程であったと思わ
れますが、そこで3泊した後(28:12)、さらに北上してメッシナ海峡に臨むレギオンに着き、さらに1日おい
て南風に乗り、2日目に320キロ北にあるプテオリに入港した(28:13)と、ルカは記しています。プテオリ港は、
今日のポッツォーリで、ナポリ湾の港の一つで、湾の最も西の端にあります。ナポリの中心部から西に約13キ
ロになります。
・そして、14節に、<わたしたちはそこで兄弟たちを見つけ、請われるままに7日間滞在した。こうしてわたし
たちはローマに着いた>と記されています。ここで<兄弟たち>とあるのは、明らかにキリスト者の兄弟たち
です。ですから、パウロがこのプテオリに初めてやってきた以前から、このプテオリにはキリスト者がいたと
いうことになります。ローマには既に40年代後半にはキリスト者が大勢いたと言われますが、パウロがプテオ
リに到着したのが、59年から60年、遅くとも61年と考えられていますので、その時プテオリにも相当数のキリ
スト者がいたことになりますと、イタリアでの急速なキリスト教の普及ぶりに目を見張るものがあります。
・しかもイタリアにキリスト教が伝えられたのは、パウロでもなく、パウロの根拠地であるシリアのアンティ
オキアからでもありません。つまりエルサレム、アンティオキアという北からのルートではなく、エジプトの
アレキサンドリアのような西からのルートから宣べ伝えられたと考えられます。使徒言行録の18章に、<アレ
キサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家がエフェソに来た。彼は主の道を受け入
れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった>
(18:24,15)とあります。このようなアポロのような人物がアレキサンドリアをはじめエジプトのキリスト教
をイタリアの諸都市に、パウロが囚人として来る前に伝えていたと考えられるのではないかと思われます。
・イエスが十字架に架けられて殺されたのが30年前後とすれば、パウロがナポリ湾ののプテリオの港についた
と考えられる60年ごろの約30年間に、エルサレムで始まったナザレのイエス派というユダヤ教の一派が、ユダ
ヤ教から分離したキリスト教として、エジプトからイタリアまで、地中海沿岸の諸都市から相当内陸部にまで
伝わっていたということは、驚くべきことです。それほどイエスの福音は、もろもろの神々と世界の諸要素に
隷属させられていた当時の人々とって、それらの諸力からの解放というインパクトを持っていたということで
はないでしょうか。
・さて、パウロらはプテオリに、そこで見つけたキリスト者に請われるままに7日間滞在したと言われていま
すが、囚人であったパウロにそれが出来たのは、実際にはパウロが殆ど囚人扱いされていなかったということ
ではないかと思われます。ルカは、7日間プテオリにパウロらが滞在したと記した後、<こうして、わたした
ちはローマに着いた>と記しています。そう記しておきながら、ルカはローマへの途上の話に戻り、16節でも
う一度<わたしたちがローマに入ったとき>と言い直しています。このことについて、田川建三さんは<この
二つの文は単純算術的には矛盾するから、本当は一方がどうだとか、文の意味を変えて読もうとか、いろいろ
議論がされてきた。しかし、例によって単にルカの文が下手なだけだろう>と言っています。
・プテオリからローマまでは陸路歩いて急いでも、普通なら5日の距離だと言われています。7日間プテオリの
信徒の仲間の家に滞在していたパウロらのことが、プテオリからローマの信徒へ伝えられたのでしょう。<ロ
ーマから、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルまえ迎えに来てくれ
た>(28:15)と言われています。ローマからアピイフォルムまでは1日か2日かかると言われていますから、
パウロらがプテオリに滞在している間に急いでローマの信徒たちにパウロらのことが伝えられたというので
しょう。
・パウロは、ローマから迎えに来てくれた兄弟たちを見て、<神に感謝し、勇気づけられた>(28:14)と言
われています。パウロは、エルサレムでユダヤ人に殺されそうになって、ローマの兵隊に助けられ、カイザリ
アで2年間捕らわれの身のままに置かれ、パウロのローマ皇帝への上訴が受け入れられて、カイザリアから未
決囚人としてローマに護送され、船の難破も体験して、やっとローマに着こうとしているのです。そしてロー
マからパウロを迎えに来た同信の兄弟たちと出会ったのです。パウロ胸には万感の思いがこみ上げてきたに
違いありません。
・パウロは、かつてコリントからローマの教会に書簡、ローマの信徒への手紙を書いて届けていました。その
書簡には、未知のローマの教会の信徒たちに、「あなたたちにも福音を宣べ伝えたい」という思いや、未開の
地イスパニアへのパウロの伝道計画を支援してもらいたいという願も、パウロは記していました。そのような
ローマの兄弟たちが迎えに来てくれたのです。パウロは本当に嬉しかったことでしょう。けれども、パウロが
ローマに着いた時、プテオリで兄弟たちに請われるままに7日間滞在したと言われるような、親密なもてなし
をローマの教会の信徒たちがしてくれたとは、何もルカは記していません。
・ただ<わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許され
た>(28:16)と、ルカはここでもパウロがいかにローマ側によって鄭重に扱われたかということを強調して
いるのであります。ルカのこのような叙述には、ルカのキリスト教がローマによって敵対的ではなく寛大に扱
われてしかるべきだという、ある種の護教的な考えが反映しているのではないかと思います。実際には、もっ
とキリスト教とローマの間には緊張があったのではないかと思われます。
・しかし、それにしてもパウロのローマ到着までの、使徒言行録によるルカによる旅行の記述を読みますと、
よくもパウロはローマに着いたという思いを持たざるを得ません。それほどまでに、パウロがローマ行きを
切望したのは、ルカによれば、パウロが夜主の言葉を聞いたからだと記されていました。パウロがエルサレ
の最高法院で取り調べを受けた時に、論争が激しくなり、パウロが引き裂かれるのではと心配したローマの
千人隊長が兵士たちに命じてパウロを兵営に連れて行かせた、<その夜、主はパウロのそばに立って言われ
た。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければなら
ない」>(23:11)というのです。ルカによれば、パウロのローマ行きは、主の命令だったということになり
ます。
・ローマの信徒への手紙では、パウロ自身がローマ行きを切望していることが記されています。そのパウロ自
身の言葉によりますと、<あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力にな
りたいから>(ロマ1:11)だというのです。そして<あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持
っている信仰によって、励まし合いたいのです>(ロマ1:12)とも言っています。さらに<兄弟たち、ぜひ知
ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回
もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。わたしは、ギリシャ人にも未開の人にも、
知恵ある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を
告げ知らせたいのです>(ロマ1:13-15)。
・このローマの信徒への手紙によるパウロ自身の言葉からしますと、パウロのローマ行きは、パウロ自身の自
らに課している責任、つまり<わたしは、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵ある人にもない人にも、果たす
べき責任がある>という自覚から来るものであることが分かります。私は、ローマに到着したパウロのことを
思いめぐらしながら、このパウロが自らに課した責任、福音を告げ知らせたいという福音宣教へのパウロの熱
い思いに触れました。このパウロの福音宣教は、一方的な伝道ではないように思うのです。イエスの福音を見
知らぬすべての他者と共に分かち合いたいという切なる願いのように思うのです。
・このパウロの思いは私たちキリスト者のベースにあるはずのイエスの福音によるこの世の神々とこの世の諸
要素からの解放と自由の賜物からきているのではないでしょうか。この世のもろもろの力から最も疎外されて
いる、この社会で小さくされている者たちとの共生をめざしながら、私たちが平和を造り出す者として生きよ
うと願い、自分なりに努力しているのも、他者と共にイエスの福音を分かち合いたいという思いからではない
でしょうか。
・パウロのローマ行きを思いめぐらしながら、そのような私たちの原点をもう一度思い起すし、そのことへの
熱い思いを新たにもつことが出来れば幸いに思います。