なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(96)

          使徒言行録による説教(96)使徒言行録28:1-10、

・ローマに囚人として護送されたパウロの乗った船が、嵐の海からかろうじて助かって、船に乗っていた人

々が上陸したのは、マルタ島だったと、使徒言行録28章1節には記されています。

・<わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった>としるされている通りで

あります。

・続けて新共同訳聖書では、<島の住民は大変親切にしてくれた>(28:2a)とありますが、ここで「島の住民」

と訳されている原語はバルバロイで、「野蛮人たち」と訳さなければなりません。田川建三さんは、<難破

して助けてもらったくせに、その相手を野蛮人と呼ぶなど、限りない失礼というものだが、・・・当時のギ

リシャ語人間(ギリシャ語を話す人々)はこのようにつけあがっていた。・・・こういう嫌らしい表現は、

著者たちがどういう文化的意識を持っているか露骨に示すものだから、誤魔化さずに直訳しないといけない>

と言って、このところをこのように訳しています。

・<野蛮人たちは、並々ならぬ人間愛を我々に示してくれて、雨が降りそうになっていたし、寒かったから、

焚き火をたいて、我々みなを受け入れてくれた>(28:2)。

・野蛮人たちと呼んで、自分たちよりも文化的に劣っているという優越感を持ちながら、難破して、上陸した

人々にとっては、並々ならぬ人間愛から彼らを受け入れてくれた野蛮人たちの振舞はうれしかったに違いあり

ません。難破した船からかろうじて上陸した人々は、当座は、そこで何が起きるのか、これからのことが不安

だったと思われます。ところが、島の人から親切な扱いを受けて、彼らはホットしたのではないでしょうか。

文化的な違いを超えて、困っている人々を助けたマルタ島の人々に、上陸した人々は心から感謝の思いを持っ

たに違いありません。マルタ島の人々は、雨が降りそうで、寒かったので、上陸した人々のために焚き火をた

いてくれました。ずぶぬれになって上陸した人々にとっては、どんなに有難い助けであったことでしょうか。

・ここには全くの初対面であり、また「野蛮人たち」という自分たちより文化的に劣っていると、他者を見

降ろす、難破した船からマルタ島に上陸したギリシャ語を話す人々と、彼らに野蛮人たちと言われたマルタ

島の人々とが出会って、その違いを超えて、助け助けられるという関係に導かれています。生存の危機に直面

している人を助けるということは、人間として当然なことに思われます。船の難破という危機的な状況を共有

する、船から上陸した人々とマルタ島の人々とは、船に乗っていた人々の命の危機にあって、すべての違いを

超えて助け助けられるという麗しい人間の関係に目覚めさせられているのではないでしょうか。そこには、神

からの賜物としての命を与えられた人間同士が、互いに相手の助け手として、その交わりにおいて互いに助け

合い、分かち合い、支え合うことによって、神が私たちに命を与えて下さったことを喜び、神を賛美し、神に

栄光を帰する、人間本来の姿が現れているように思われるのであります。アダムとイブが神によって創造され

たのは、交わりに生きる二人が支え合い、愛し合うことによって、神の愛を生きるために造られたのではなか

ったでしょうか。少なくとも創世記の人間創造物語では、そのように書かれているように、私には思われます。

・ところが、今現在の私たちの現実は、そのような人間本来の在り様からは遠く離れた異教での暮らしになっ

ているのであります。国家や民族や複雑な巨大システムとしての社会に組み込まれて生活している私たちは、

真っ当な互いに助け、助けられる、分かち合い、支え合う人間本来の関係を構築しようとしても、なかなか困

難であります。私は木曜日に船越教会に来てからテレビを見ていませんので、今どうなっているか分かりませ

んが、イスラム国に身柄を拘束されているジャーナリストの後藤さんのように、戦火の中の子どもたちのこと

を思い、その状況をジャーナリストとして世界に発信し、何とか子どもたちを助けたいと行動する人が、現在

の国家や民族や宗教の対立という構造の中で、イスラム国に拘束され、身代金要求のために手段にされてしま

うという現実が起きているのであります。

神の国を信じ、その地上における完成を待ち望む私たちは、直接的なお互いの助け合い、支え合い、分かち

合いと共に、国家や民族を相対化し、この強大な社会のシステムを人間と自然に優しいシステムに作り替えて

いく行く努力によって、神によって命与えられた人間相互の本来的な関係を求めて行かなければならないと思

います。

・さてマルタ島に上陸したとき、パウロは囚人としての拘束から解かれて自由に行動することができた様です。

パウロは一束の枯れ枝を集めて火にくべると>と言われていますから、枯れ木を拾い集め、それを火にくべ

るという自由がパウロにあったということです。そこで、使徒言行録の著者ルカは、パウロの身に起こった蝮

の話を記しています。

パウロが、<枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた>とい

うのです。(28:3)。人々はそれを見て、<「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、「正義

の女神」はこの人を生かしておかないのだ」>(28:4)と互いに語り合ったというのです。<ところが、パウロ

は(蝮を)火の中に振り落とし、何の害も受けなかった>(28:5)ので、人々の評価はたちまち逆転して「この

人は神様だ」と言い出したと記されています。

・ルカはこの蝮のエピソードを伝えてから、この場所の近くに、島の長官プブリウスという人が住んでいて、

<彼は、わたしたちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた>(28:7)とも語っています。当時この地方

の島々は、ローマの総督の管轄下に置かれていましたが、島自体の統治は「首長」に委ねられていました。つ

まりプブリウスは、ローマの官吏であると共に、この島の第一の有力者であったわけです。その彼が自分の家

に招待したのは、もちろん276人もの乗員すべてではなかったと思われます。ルカはむしろ、少数のキリスト

信徒に対する彼の熱いもてなしを、明らかに護教的意図をもって、強調して記しているように思われます

(高橋三郎)。

・なおその上、プブリウスの父が<熱病と下痢で、床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を

置いていやした>(28:8)とあります。<このことがあって以来、ほかにも病んでいる島の人々が、続々とや

ってきて、みないやされた>というのですから(29:9)、その感謝と尊敬が、いかにパウロの上に注ぎ出された

かを察することができます。ルカはこう語ることによって、奇跡といやしの人としてのパウロ像を鮮やかに描

き出しているのであります(高橋三郎)。

・この使徒言行録のマルタ島での出来事が起こる前にパウロが書いた、ローマの信徒への手紙15章17節以下で、

このマルタ島で起こったような出来事がパウロの宣教活動においてしばしば起こったことを示すかのように、

このように述べています。<…わたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っていま

す。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせ

るために、わたしの言葉と行いを通して、またしるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました>

(17-19節)。

・このパウロ自身の書いた手紙の言葉からしても、ルカの描くマルタ島でのパウロの振る舞いは、ルカの創作

というのではなく、何らかの事実に基づいたルカの報告と言えるのではないでしょうか。

・このローマの信徒への手紙の中で、パウロは福音の宣教の働きについて、言葉で語ると共に、<キリストが

わたしを通して働かれた>と語っていることに注目したいと思います。福音宣教は、福音を語る者においてキ

リストが働いていることが現れるという出来事であるということが、このパウロの言葉を通して分かるのでは

ないかと思います。

使徒言行録が伝えるマルタ島での出来事では、船が難破して上陸した人々を、マルタ島の人々が助けてくれ

たということで、船の人々とマルタ島に住んでいた人々との出会いが起こりました。パウロも難破してマルタ

島に上陸した人々の一人でした。マルタ島の人々が火を焚いてくれたとき、その熱気で蝮が枯れ枝の中から出

てきて、パウロの手に絡みついたわけです。これはマルタ島の人々にとっては、悪い知らせで、パウロは嵐で

難破した船から助かったけれども、この人は悪い人で、正義の女神はこの人を生かしておかないのだという風

に思ったというのです。ところがパウロは蝮を火の中に振り落とし、何の害も受けないことが分かると、マル

タ島の人々はパウロのことを「この人は神だ」と言い出したというのです。

・そしてパウロはそこで病人の癒しの業を行うのです。またこのマルタ島では、パウロの言葉による宣教はな

かったようですが、蝮にまつわるパウロの振る舞いは、マルタ島の人々には奇跡と思われたに違いありません。

また、パウロによる病人の癒しによって、イエスの業が再現されているのです。<キリストがわたしを通して

働かれた>というパウロ自らがローマの信徒の手紙の中で言っていることが、マルタ島で起こったのです。

・イエスにとっては、神の国の宣教と悪霊追放、病者の癒しは密接不可分のつながりがあって、悪霊追放と病

者の癒しは神の国到来のしるしでありました。この世の現実に神の国が突入し、神の国を生きる人々の中で悪

霊追放と病者の癒しが生起するのです。その意味で、パウロによってマルタ島の人々にも神の国の福音の光が

差し込んだのです。

マルタ島でこの出来事が起こった時、パウロは囚人としてローマに護送されていくところでした。囚人であ

パウロを通しても働くキリストが、人々に福音の灯をもたらすことを覚えたいと思います。「時がよくても

悪くても、御言葉を語る」ということは、時が良くても悪くても、キリストが私たちを通して働いてくださる

ということでもあります。

・特にこの日本において状況の厳しさに負けずに、語るべきことを語り、なすべきことをなしつつ、神を待ち

望んで生きていきたいと思います。