なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(95)

         使徒言行録による説教(95)使徒言行録27章27-44節、

・今日の使徒言行録の記事を読みますと、暴風雨に悩まされ、漂流する船の中で不安に慄く人々を、パウロ

は力強い助言をもって励ましています。助言するパウロ。これが使徒言行録の著者ルカがこの箇所で描くパ

ウロ像です。

・前回パウロは、長い間荒れ狂う海に翻弄されている船の中で、食事もとることが出来なかった人々に対し

て、<船は失うが、あなたがたのうち誰一人命を失う者はいない>と励まし、最後に<わたしたちは必ずど

こかの島に打ち上げられるはずです>と語りました。その後のことが、先き程読んでいただいた使徒言行録

27章27節以下に記されているところです。

・冒頭に<14日目の夜になったとき>とあります。クレタ島の「良い港」から「フェリクス港」に向かった

船は暴風雨に見舞われ、漂流してから<14日目の夜>ということです。14日間荒れ狂う海を船にいるという

ことがどういうことなのか。人々の不安と恐れは極限に達していたものと思われます。

・<わたしたちはアドリア海を漂流していた>(27:27)と言われていますから、イタリアとギリシャの間に

広がる地中海を漂流していたことになります。<真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているよう

に感じた>(27:27)と言われています。28章を見ますと、人々が上陸したのはマルタ島だと言われていま

すから、マルタ島の近くまで来たということになります。

・陸地に近づいているのを感じたので、<そこで水の深さを測ってみた>ところ、<20オルギアあること

が分かりました。20オルギアというと、1オルギアは1.8メートルの長さですから、20オルギアは水

深36メートルということになります。<もう少し進んで測って見ると、15オルギアであった>とありま

すから、27メートルになります。段々水深があさくなるので、暗礁に乗り上げないようにと、船員たちは

船尾から四つの錨をおろして船を固定して、夜が明けるのを待ちました。これは当然の処置でした。

・ところが、その時、<船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろ

した>(27:30)というのです。この時にも、パウロは助言者として<百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが

船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言>って(27:31)、船員たちが逃げださないよう

に百人隊長らに助言しているのです。<そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるままにまかせ>

(27:32)ました。船員たちが小舟で逃げ出す前に、小舟を船から切り離して、海に捨ててしまったと

いうのです。

・この小舟を失ったということは、パウロらの乗っていた船が方向転換や陸に近づいたり、陸から離れたり

する時に、その船を引っ張っていくために小舟がなくなってしまったということです。

・14日間も、殆ど食事らしい食事もとらずにいた人々に向かって、パウロは、<夜が明けたころ>、食事を

とるように勧めて、こう呼びかけました。<「今日で14日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに

過ごしてきました>と言っています。けれども、14日間も全く何も食べなかったら、体は衰弱して動くこと

もできなかったでしょうから、これはルカの誇張ではないかと思います。そして続けて、<だから、どうぞ

食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはあり

ません」>(27:33-34)と、パウロは語ったというのです。

・そう言って、<パウロは、一同の前で、パンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始

めた。そこで一同も元気づいて食事をした>(27:35,36)というのです。37節には、<船にいたわたしたちは、

全部で276人であった>と言われていますが、田川建三さんは、200人に当たる原文が「およそ」とも読めるの

で、ここは276人ではなく「およそ76人」ではないかと言っています。ただ<当時大きな船は600人も収容でき

たということだから、この(276人という)数は過大に過ぎることはない>と言う人もあって、正確なところは

よくわかりません。

パウロの呼びかけによって、人々は<十分に食べてから>、後は上陸を待つばかりなので、<穀物を海に投

げ捨てて船を軽くし>(27:38)ました。高橋三郎さんは、<しかし、かりに予定どおり上陸できたとしても、

食料はその後も必要だったから、ここで穀物まで捨てたというのは、納得しかねる処置であった。さらにまた、

夜が明けたとき、砂浜のある入江が見えたので船をそこに入れるために、「風に前の帆を上げて、砂浜に向か

って進んだ」(27:40)ことは理解できるけれども、なぜ錨を切り棄てたのか、理由がはっきりしない。(錨を

引き上げるだけでもよかった筈だ)。察するところルカは、船がここで破壊されたという事実を前提して、話

を進めているのであろう>と言っています。

・さて、砂浜に向かって進んだ船は、<深みに挟まれた浅瀬にぶつかって乗り上げてしまい、船首がめり込ん

で動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした>(27:41)というのです。

・上陸寸前のこの時に到って、また危機が待ち構えていました。それは、囚人が逃げたら、護送している百人

隊長と兵士の責任が問われ、彼らが処罰を受けなければなりませんでした。ですから、この時兵士たちは、囚

人が泳いで逃げることを恐れて、殺してしまおうと計ったのです(27:42)。<しかし、百人隊長は、パウロ

を助けようと思ったので、この計画を思いとどまらせ>ました(27:43)。<そして、泳げる者がまず飛び込ん

で陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令し>ました。こうして、全

員が無事に上陸することができたのです。

・<以上の叙述を通して、ルカが一貫して語ろうとしているのは、人の目には不可能と見えたことが実現し、

文字どおり死中に活を得たということである。しかも、この難局に当たって、本来航海についての専門家であ

った人々が、その無力ぶりを露呈し、一囚人に過ぎなかったパウロが(まさに主ともにいますという唯一の事

実の故に)、この一行を救ったのであった。なおそれと併せて、同船のすべての人のために、パウロは執り成

しの祈りを捧げている姿が、暗黙のうちに前提されている。この執り成しの祈りにおいて、パウロはまさに一

行を、主のみまえに代表していたのである>(高橋三郎)。これはルカの描くパウロ像を言い表しているもの

と思われます。この使徒言行録の著者ルカの描くパウロ像は、ルカの護教的な意図丸出しの作り物だと、切り

捨ててしまうこともできるでしょう。けれども、私は、この必ずしもキリスト者だけではない、この船に乗っ

ていた人々の中でパウロが果たした役割は、この世にある教会やキリスト者の責任を示唆しているように読め

るのです。

・この使徒言行録の中でのパウロの助言者としての姿は、旧約聖書預言者に等しいのではないかと思うので

す。暴風による船の難破という危機の中で、パウロは助言者として、同じ船に乗り合わせた人々を、その危機

から救い出します。それは、漂流する船の中で不安と恐れに捕らわれている人々を励まし、助け、難破の危機

を乗り越える道を指し示すことによってです。

・これは、パウロの乗っていた船を、その時代や社会に譬えれば、パウロは、旧約の預言者のように、その時

代や社会の中にあって警告と批判を語る存在と類比することが許されるのではないかと思うのです。

・私は最近たまたま、福音と世界2月号に掲載されていました、金井美彦さんと言う人の「預言者的信仰を受

け継ぐということ」と題した論文を読みました。金井さんは、最近の安倍政権下の動きに注目し、<このよう

な事態をどうとらえるべきだろうか>と問い、<私はこの事態を極めて危険であり、憂慮すべきものと見てい

る。なぜか? 手短に言えば、私は権力による命令とか、権威に基づく無言の力とか、数の多さとか、人を駆

り立てて競争させて選別するとか、体罰などと称して暴力によって訓育するとか、軍事力を増すことで平和が

持続するという主張など、全く信用できないからだ。これらはすべて人と人との関わりを壊す、あるいは関わ

りの構築を阻む、そして支配し支配されるという歪んだ関係をもたらすと思う>と述べ、<ところで、振り返

って、私がこうした判断や立場を宣揚する原動力は何かを考えてみた>と言って、<旧約を学び始めてからそ

う確信したのだった。モーセの生涯を読み、さらに預言者新約聖書のイエスを知って、いっそう自分が真っ

当だと確信するようになった>と言っています。

・そしてエレミヤの嘆きとエゼキエルの幻に触れ、<私たちは聖書の伝統に立つ事を自覚しているが、だとす

るなら教会の中だけにとどまらず、広く自分たちの共同体や国家の壊れつつある中にあって、それが分かって

いない世に警告を発しなければ、この怠慢の責任を問われることになると私は思う>と言っています。そして

<今の日本は歴史的な曲がり角と見られる。そしてその先には深刻な戦争、貧困、格差、環境破壊が見え隠れ

する。それゆえ、わたしたちはもう一度エレミヤやエゼキエルの危機の言葉を真剣に受け止め、世に対する責

任を自覚すべきである。しかも預言者の巻物は甘いということ、警告や批判の言葉が真の食料であり、かつ喜

びであることを確信しながら、世にあるキリスト者としての責任を果たしていかなくてはならない>と、この

論文を締めくくっています。

・まさにその通りではないでしょうか。金井さんは、「預言者の書き物は甘い、警告や批判の言葉が真の食糧

であり、かつ喜びである」と言っています。パウロの助言が、船が難破して乗船した人々が命を落とす危機の

中で、人々を救ったことを想い起したいと思います。わたしたちもまた、<歴史的な曲がり角にある日本>に

生きる者として、イエス・キリストの福音から発せられるこの世に対する警告と批判の言葉を語り続けていき

たいと願わずにはおれません。