黙想と祈りの夕べ通信(585)復刻版を掲載します。2010年12月のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(585)[Ⅻ-11]2010・12・12発行)復刻版
12月の教会だよりの牧師室からにも書きましたが、社会的な問題意識をもっていてさまざまな運動をして
いるキリスト者の方々から、自分の所属する教会との関係が悪くなっているという悩みを聞くことがよくあ
ります。中には教会に見切りをつけて、礼拝にも行かなくなったという人もいます。現代の教会の危機は、
教勢が伸びないということ以上に、長年教会生活を続けてきたキリスト者によって教会が見切りをつけられ
てしまうということにあるのかも知れません。このようなことが何故起こるのでしょうか。もし信仰が自分
とイエス及びイエスの神との関係だけで、信仰者の交わり(聖徒の交わり=教会)がなくてもよければ、教
会に躓くということもないかも知れません。けれども、キリスト教信仰にとって教会を信じるということは、
信仰の不可欠な要素です。そもそも教会がなければ、私たちが今日聖書を手にすることも、キリスト教信仰
に出会うこともできません。イエスから始まり、弟子たちに引き継がれ、イエスをキリストと信じる者の群
れがパレスチナから始まり、地中海周辺のギリシャ・ローマ(ヘレニズム)世界に広がっていき、ローマ帝
国の国教となり、中世ヨーロッパの世界は正にキリスト教世界そのものでした。揺籃から墓場までキリスト
教は文化そのものであり、キリスト教は政治経済的な支配にも密接不可分に関わっていました。大航海時代
には、ヨーロッパの世界からキリスト教はアフリカやアジア、中南米の世界にも広がっていきました。日本
にもフランシスコ・ザビエルによってキリスト教がもたらされました。キリシタンの時代です。その後産業
革命がヨーロッパで起こり、植民地支配の尖兵としてのキリスト教が宣教師によって世界の各地にもたらさ
れました。日本には江戸末期から明治のはじめにかけて札幌、横浜、熊本などに宣教師によってプロテスタ
ントのキリスト教がもたらされました。この時を源流としている今日の日本のプロテスタントの教会の一つ
が、私たちが所属しています日本基督教団という教会です。紅葉坂教会もその流れの中で誕生した教会の一
つです。このようなキリスト教の歴史は、世俗の歴史と競合しながら継承されてきていますが、ただ信仰の
継承にはキリスト者のパッション(熱情と苦難)が必要でした。植民地支配の尖兵となったキリスト教の宣
教師たちは、未知の世界に行って、全くキリスト教を知らない人たちに宣教したわけです。宣教師から先進
国としてのヨーロッパ文化を吸収して自分たちの国を繁栄させたいという、技術を求めて彼ら彼女らに近づ
いた宣教地の人々も多かったと思いますが、宣教師の信仰のパッションがその宣教地にキリスト者を生み出
していったことも事実です。そのようにして世界の各地にキリスト教が広がっていき、現在の日本にも人口
の1%弱とはいえ、キリスト者が存在しているということです。ですから、教会がなければ信仰の継承はあ
りえません。しかし、組織体としての教会は時代の変遷によって変わっていかざるを得ません。時代の変遷
によって組織体としての教会が生きのびていくとすれば、教会という組織体の構成メンバーであるそれぞれ
のキリスト者の中にあるパッションが次の世代に引き継がれるものがあるときではないでしょうか。もし教
会を構成しているメンンバーの一人一人に信仰的なパッションがなえてしまえば、教会がたとえ存続してい
ったとしても、それはご利益を求めて集まる宗教施設としての神社仏閣と何ら変わらないものになっていく
でしょう。
さて随分遠回りしましたが、現代の教会に見切りをつけてしまうキリスト者の存在は、そのキリスト者の
パッションがその人が出席している教会にはなじまないということではないかと思われます。日本基督教団
という教会は、去る教団総会に提出された沖縄宣教連帯金や合同のとらえなおしや軍事基地撤去声明やセク
シュアル・マイノリティー差別に関する議案を全て否決したように、人間の問題としての社会的な問題を伝
道の下位に位置づけて、教会の宣教の課題とは考えませんでした。そのような日本基督教団の大勢の信仰的
な姿勢とは異なる信仰的なパッションをもっているキリスト者も多いと思います。そういう人が日本基督教
団の大勢に従う教会のメンバーであったという場合、往々にして自分の出席教会に見切りをつけてしまうと
うことが起こり得るのです。私は、それも仕方ないとは思いつつ、むしろその人の出席教会とは別に同じ信
仰的なパッションを共有する他教会に所属する人と日常的に活動を共にする小グループを作っていったらと
考えています。これからは、私自身はそのことにも力を注いでいきたいと思っています。
「活力を与えるヴィジョン」 12月12日
万民に究極の平和と万物の究極的な調和という偉大なヴィジョンは、単なる理想、お伽噺にすぎないので
しょうか。いいえ、そんなことはありません。これらのヴィジョンは、人類の心の最も深い願いに呼応し、
どんな嘘もごまかしもきかない、明らかにされるのを待っている真理を指し示しています。これらのヴィジョ
ンは、私たちの魂を養い、心を強めてくれます。絶望しかけた時には希望を、人生をあきらめかけた時には
勇気を、疑うことのほうが当然道理に適っていると思えるような時には信頼を与えてくれます。このような
ヴィジョンがないと、私たちの最も深いところにある望み~それは大きな障がいやつらい挫折を乗り越える
力を与えてくれます~は見えなくなり、生活は色彩を失って退屈なものとなり、最終的には破壊的なものと
なってしまいます。ヴィジョンを持っていると、私たちの人生は活気のある意味深いものとなるでしょう。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)