なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

改訂宣教基礎理論第二次草案学習会発題

 2月5日のこのブログに、2月2日の教区での「教団改訂宣教基礎理論第二次草案」学習会での発題レ

ジメを掲載しました。その時の私の発題を教区の書記の方がテープから書き起こしてくださったものをい

ただきましたので、それを以下に掲載させてもらいます。

(北村発題)

 北村慈郎氏:皆さんに案内が最初に行ったときは、K・H氏と書かれていた。僕は安心したのですが、改

めて私の方に返って来ました。私は今免職中ですので、神奈川教区でこのようなことを話していいのかど

うか、ちょっと心配なのですが、教区の方が選んでくださいましたのでお話しします。僕も私的意見とし

てプリントを刷っていますので、これに沿ってお話しします。

1)前文の事実誤認について まず、改訂宣教基礎理論の前文が事実誤認に基づいて書かれている、とい

うことです。そこに最初の部分を挙げておきましたけれども、これは昨年12月に出た「教団ジャーナル

風」43号で、「改訂宣教基礎理論への問い」と題して、戒能信生氏が文章を書いていて、そこで書かれて

いることでもある。いわゆる教勢のデータの理解が基本的に違っている、ということである。戦後キリス

ト教ブームでずっと上がってきて、60年代に入って下がってきて、73年くらいまで下がっている。73年か

ら上がってきて、93年ころまで上がってきて、93年からまた下がっている。そういう事実がある。それを

この「第二次草案」では、あたかも「70年代の問題があるから、教勢が低下してきている。」と書かれて

いる。もう一つ、63年の「宣教基礎理論」に対する理解が、一面的である、ということである。「いわゆ

る垂直への言及が欠落している。」と「改訂宣教基礎理論」の前文では書かれているが、これはちょっと

言いすぎである。そこに僕の方も「宣教基礎理論」の文章を挙げておいたが、縦のことはちゃんと書いて

ある。従って「改訂宣教基礎理論・第二次草案」の前文は、事実誤認によって書かれている。戒能信生氏

は非常に厳しく、「ためにするデマゴギー以外の何物でもない。」と断定している。

2)「宣教という神の業」の理解について 「『宣教という神の業』の理解について」であるが、これ

は、たぶんバルトの57年ぐらいのWCCで出された「三位一体の神」による宣教ということで、それが基

礎になっている、と思う。WCCはそれ以後、非常に社会的な問題に傾斜して行って、バルトは、その中

で、教会の位置づけが不明確になっている、と批判した。そのことを、批判の前のバルトの線に沿って、

「改訂宣教基礎理論・第二次草案」は書かれている、と思う。しかし、その後のWCCの運動の中で、現

実との関係の問題で、教会の宣教がだいぶ考えられていった。たとえば、「三位一体の神」が宣教の主体

である、と言う時には、教会以前に、「神が働いておられる。」というわけであるから、そういう点で、

神の働きと教会の働きはどのように関係してくるのか。非常に重要な問題である。バプテストの方だと思

うが、松田和徳憲氏が、「宣教の神学~パラダイム転換を目指して~」という本の中で、「ミッシオ・デ

イ」について書かれている部分を引用しておいた。最後のところだけ読ませていただく。「(中略)教会

は、世から選ばれ、世に向かって、世のために派遣される神の民である。それゆえ、教会は世の上に立つ

存在ではなく、キリストに属する民であるが、世の一部として、世にあって生きる群れである。そこで教

会と世界とは連帯の関係において、共に神の祝福のもとに生きる存在である。」「宣教基礎理論」は、

「世のための教会(ボンヘッファーなど)」であったが、今は「世と共に」という観点に移りつつある。

これは、社会的な運動をしている方は、ほぼ実体験として感じておられる、と思う。たとえば、「寿」で

も、いわゆる労働運動をしている非キリスト者の方々と一緒にやっているが、そういう方々が、まさに福

音を体現している場合がある。ですから、キリスト者だけが神の業に仕えているとは言えない面がある。

「世と共に」宣教の業に寄与する、という形に、現実としては変わってきている。

3)日本基督教団信仰告白(および教憲教規)について 3番目は、日本基督教団信仰告白、教憲教規に

いての理解が基本的に間違っている、と思う。教団の信仰告白は、戦後の会派問題の中で、日本基督教会

の一部が離脱していくときに、残った日本基督教会が教団内にいることができることを考えて、(日本基

督教会は長老主義であるので、全体教会の信仰告白がない教会は認めない。)信仰告白が調停的に、教団

内の諸教派がそこで離脱しないようにするために、作られたものであって、これは、戦時下にできた、文

部省と教団当局の間で確認された「教義の大要」の焼き直しである。これは、土肥昭夫氏が「アレテイ

ア」の95年11月号の中で、きちっと分析して文章を書いている。ですから、今の教団の信仰告白は、戦時

下の「教義の大要」と質的に変わらない。天皇ファシズム国家の中で、戦争協力させられた教会の体質

を、教団の信仰告白は引き継いでいる、と思う。そういう点で、これは大変重要な問題である。ですか

ら、現教団信仰告白は、社会の中で、教会の主体性をもって告白された信仰告白ではない。ですから、戦

時下の天皇制の問題を含めて、少なくとも自覚的に、ある面でそれに対峙するような教会の宣教のあり方

を考える場合には、「日本基督教団戦争責任告白」を起点として、戦時下の反省の上に立って、信仰告白

が作られなければ、教団の信仰告白は、今日的な時代社会に、教会の主体性をもって告白する信仰告白

はならない。合同のとらえなおしの中で、信仰告白の再検討の問題が出てきたが、それが頓挫している。

それがむしろ問題である。合同のとらえなおしを進める中で、教団の信仰告白が再検討されていくのが、

本来の筋である。

4)政治的・社会的な証し、4番目、この「改訂宣教基礎理論・第二次草案」には、ほとんどキリスト者

あるいは教会の政治的な、社会的な証言については、具体的にはなにも言っていない。むしろ、たとえ

ば、政治的な判断はイデオロギー輻輳していて、それを判断するのは難しいから、むしろ判断しない方

がよい、とされている。政治的な運動や平和運動については、「祈る」ということだけしか、言われてい

ない。ベトナム戦争の時に、井上良雄氏と北森嘉蔵氏との論争があった。教会は「平和の大切さ」を言

う。父のブッシュ大統領も「平和の大切さ」を言っていた。北爆で北のベトナムにどんどん爆弾を落とし

ながら、そう言っていた。「平和の大切さ」は誰でも、戦争をする人も皆言う。福音の中から出てくる問

題で、具体的な方向性を出さない限り、平和を大切にしたことにはならない。と井上良雄氏は言ってい

た。そのとおりだ、と僕は思う。もう少しこの「改訂宣教基礎理論・第二次草案」の中では、具体的に政

治的・社会的な証言を加えていかねばならない。

5)信徒論・教職論について 5番目、信徒論、教職論、これについては、万人祭司論に立ってはいる

が、身分制的な考えを展開している。伝統的にそういう面がないとは言えないが、もし万人祭司制に立つ

とするならば、教職もまた信徒になる。そのうえで教職が成り立つとするならば、機能論的に考えざるを

得ない。つまり、教会が、役割として教職を、働きとして必要とする。現代の分業社会の中では、当然そ

うせざるを得ない。ただ、教職に立てた人に、すべて信徒が預けてしまうのではなく、教職が聖書をしっ

かり読み、祈り、み言葉を語ることにおいて、信徒も同じであるから、教職の働きを信徒がいつでも取り

戻せる構造がないと、固定化していく。信徒が聖書に基づいて真理を語る場合、信徒は教職である。教職

は、その時は信徒となる。「聞く」「語る」は、必ずしも一方的なものではない。両者から互換性がある

ものだ。シュライエルマッハーの「宗教論」の中に、そういう記述がある。ところが、「改訂宣教基礎理

論・第二次草案」は、一方的な職制の上に立っている。

6)教会と国家について 6番目、教会と国家についてである。これは完全にルターの「二王国説」を

採っている。これは、戦時下の教団の姿勢、中枢の姿勢と全く同じである。たとえば、国家への抵抗権に

ついて書かれているが、それは、「礼拝が侵される」時であるとか、「信条が侵される」時であると、書

かれている。これは、ここに挿話として挙げてあるが、横浜指路教会の牧師であった村田四郎氏と富田満

氏が、文部省に呼ばれて、信仰告白の件で折衝をしていく。その時に村田教学局長が、「復活信仰なぞ

は、愚かな作り話だから、そんなのはやめろ」と文部省側がは言うのに対し、「信条が侵されるならば、

殉教せざるを得ない」とこういう風に言う。しかし、国家の戦争には協力して、アジアの人をたくさん殺

すことに参与している。信条の「復活信仰」をやめろ、と言うならば殉教する。これはどこかにおかしな

ものがあるのではないだろうか。それと全く同じ論理が、教会と国家の中に使われている。おわりに 先

ほどK氏もおっしゃっているが、信仰告白、教憲教規に基づく教会形成という立場の人と、歴史社会の中

で問われてくることに答えながら形成していくという立場の人と、70年代に「戦争責任告白」を巡って、

教会のそういう考え方、宣教論、教会論、信仰論、すべてにおいて二分化している。この事実は、合同教

会である以上認めざるを得ない。そのうえで議論していくしかない。今の教団の中央にいる人たちは、一

部を排除して自分たちだけでやっていこう、としている。そこに無理がある。ナザレン教団の石田学氏

が、「クリスチャン新聞」に、今日の宣教のあり方について書いている。その時、天皇制を含めて、日本

の中の「対抗共同体」として教会形成をしなければいけない、ということを言っている。きちんと社会の

現実に対して、特に日本の場合には、国家であるとか、あるいは資本のイデオロギーの中で、我々は生き

ているので、たとえば、企業で働いて資本の論理に全く無自覚であれば、その資本の論理の中に組み込ま

れていくのであるから、これは万博の時に問題になったことである、国家であるとか、資本を教会が補完

していくようなあり方は、聖書のイエスの福音からは絶対ありえないことだ、と思う。この「改訂宣教基

礎理論・第二次草案」は、まさに補完するものである。石田学氏が言うような「対抗共同体」を形成する

までに至らない、と思う。そういう意味で、現場の教会の宣教基礎理論たりえない、と思う。むしろ63年

版を改訂するならば、「日本基督教団戦争責任告白」以降40年の教団の歴史を踏まえて、それにふさわし

い「改訂宣教基礎理論」を作るべきだ、と思う。

 参考までに、沖縄での2008年の、「沖縄にある将来教会の在り方を検討する特設委員会」がまとめた文

章の中で、第5項目「積極的に福音宣教する教会」、第8項目「信徒論・教職論・会議制」、第2項目

「教会と国家」をぜひ読んでください。全然違います。終わります。