なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(372)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(372)復刻版を掲載します。2006年11月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(372[-7]2006・11・12発行)復刻版


 今日の旧約聖書の朗読箇所詩篇58編の言葉の中には、聞くに堪えない差別的なものがあります。例え

ば、「神に逆らう者」に対するものとして、「太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい」(9節)と

言われています。何とも言えません。言葉はそれを語る者の感情や思想の表われでもありますが、私たち

人間の中には本当にどろどろしたものがあるということでしょう。昨日も「セクシュアルハラスメント

をテーマにした教区の常置委員会の学習会がありました。講師は女性の弁護士の方でした。講演と質疑応

答を聞いていて、いろいろなことを感じましたが、その一つは企業ではある種の合理性が貫かれても、教

会というところはそうではないということです。前近代的権威主義のようなものがあって、事柄がうや

むやになりやすい土壌があるように思われます。そんなことを思いながら、講師のお話を聞いて、改めて

教会は異なる多様な人間の集まりであるという、極めて当たり前の事実を大切にすることではないかと思

いました。ともしますと、教会では、組織としての教会や神学としての教会の教義が優先されて、具体的

な個々の人間が軽視乃至は無視される危険性があるように思われるからです。異質な他者との出会いの場

としての教会という側面を意識的に強調したいと思います。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今日の聖書箇所(詩篇58編とマタイ福音

書5章38-48節)の言葉は、はじめて聞くように新鮮に行くことが出来た。このところ自分のことばかりに

心を向けてきたが、これからは隣人のことにも心を向けて歩んでいきたい。

 別の方からの発言がありました。企業と教会の違い、教会の中にある集団の論理の危険性は先生のおっ

しゃる通りだと感じた。先週の日曜日に練馬の友人が牧師をしている聖公会の教会のバザーに行って来

た。友人の牧師と話していて、40年前の同窓の先輩に会いたい、その二人は弱っているので、連れ合いに

も一緒に来てもらって会をもてたらと話し合った。人が年を取って、自然に衰えていき、召されていくこ

とはいいことだと思う。今臓器移植が問題になっている。10年前は脳死が問題になったが、現在は生きて

いる人間の臓器移植が問題になっている。そこでは人間の臓器が素材のように扱われことに、自分として

は違和感を覚える。それぞれの臓器はその人との関係で単なる素材とは思えない。何がしかの尊厳がある

ように思われる。臓器の提供を受ける方は、それによって命が長らえるということだが、そこまで人間が

臓器を取り替えて再生するのは、神の創造の業に近いことで行き過ぎではないか。関係者には願望があ

り、酷かもしれないが、寿命を甘んじて受け入れることではないかと、自分自身は思っている。

 また他の人からの発言がありました。久しぶりに黙想と祈りの夕べに出席した。昨日教区で「セクシュ

アルハラスメント」の学びがあったが、たまたま先日開催の教団総会で同性愛者の発言に対して自分の教

会にはそういう人がいて欲しくないという差別発言がありショックだった。その差別発言をした人と丁寧

に一対一で話し合っていた人がいて、その彼女が疲れていたので、どうだったのと私の方から彼女に話し

かけた。すると、彼女から、差別発言をした人も障がい者で、自分は旧約聖書でも障がい者は罪人だと言

われているし、教団総会議員として総会に出てきたが、もし総会でお前のような者が総会に出るのはふさ

わしくないと言われれば、すぐ退席し帰るつもりだった。そういう風に自分は我慢してきたので、同性愛

者の人が発言をしたり、牧師になったりすることは控えるべきだと思っていたと言うのだ。イエスは障が

いを持った人と出会い、当時社会にあった差別の壁を壊しているのに、旧約聖書の言葉の中には差別的な

言葉が確かに多い。聖書は正典であるということで、批判的に読まないでそのまま正しいと理解されてき

たのではないか。私は牧師の連れ合いということで、逆差別を体験することがある。娘が小学1年の頃こ

の教会の入り口で、外国に旅行した教会員からお土産のお人形をもらったことがある。その時娘は友達が

いるのに自分だけお土産をもらうのはいやだと言った。差別について鋭く考えていないと、差別したり差

別されたりの繰り返しに陥ってしまう。昨日の講演者の弁護士は、一人一人の人権を大切に、対等な関係

が基本だと、おっしゃっていた。両者の痛みに鈍感になっている自分自身をもう一度捉え直し、教会の中

で同じ過ちを繰り返したくないと思う。

 最後にもう一人の方の発言がありました。今日の午前中にあった聖書研究会で、神の託宣をダビデが求

めて、それに従って行動するという話があったが、それをずっと考えていきた。人間が決断する時に迷う

ものだが、神がバックにつけば迷いを吹っ飛ばしてくれるし、前に進めるパワーになると思う。しかしそ

のことは一歩間違えば、大変恐いことだ。自分の自信の無さを神を盾にして繕うことを我々はするように

思う。今日の聖書朗読箇所のマタイ福音書5章48節に「あなたがたの天の父が完全であられるように、あ

なたがたも完全な者になりなさい」とあるが、我々は完全をめざすのであって、完全はあり得ないと思

う。むしろ自信の無さや不完全であることを大事にしていくことが大切ではないか。私自身ははっきりど

こかつかみどころのない弱さとか不完全さを抱えて生きて、神に頼るのだが、そのままで良いのではない

かと思わされた。