なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(584)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(584)復刻版を掲載します。2010年12月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(584)[Ⅻ-10]2010・12・5発行)復刻版  


 11月22日に東京地裁民事部に私の「地位保全仮処分命令申立書」が弁護士によって提出されました。

24日には裁判官面接があり、12月2日には教団側の弁護士も呼ばれ、審尋が行われました。私の代理を

してくださっているK弁護士、F弁護士の報告によりますと、今回の教団側の答弁書政教分離により、

私の訴えは却下されるべきという論旨のみであったようです。裁判官は私の方の訴えは手続きの問題

であり、手続き違反の部分のみを問うているので、これは裁判所の判断の対象となりうるのではない

かと言われたようです。また、手続きだけを切り離して議論できないという教団側の主張に対して、裁

判官はその理由を詳しく述べてほしいと言われ、私の申立書の手続き違反に当る部分についても詳しく

否認してほしいと言われたそうです。この報告によれば、少なくとも裁判所が私の申立を入口で裁判に

はなじまないということで却下しなかったということです。そのことは、お二人の弁護士が細心の注意

を払って、聖餐という教会の教義、祭儀が切っ掛けとなって教団側が私を免職処分にしたわけですが、

教義、祭儀が問題ではなく、免職処分を行ったその手続きの違法性に争点を絞って申立書を書いてくだ

さったからだと思います。今後の進展はまだ未知数ですが、何とか免職撤回への道が開かれることを願

っています。

 免職撤回は、勿論私自身の地位保全ではありますが、日本基督教団という組織が一人一人の人権を尊

重して運営される公正な組織であることへの願いでもあります。相対的な多数を力にして、自らの主張

のみを押し通そうとする自己絶対化を目論む福音主義教会連合及び連合長老会に所属する方々は、自ら

が教団の一部の構成員に過ぎないということを自覚し、自己相対化をなし、様々な立場や考えを持つ人

たちとの論争と説得を通して、自らの正当性を主張すべきです。しかし、現在の福音主義教会連合や連

合長老会に属する方々には、自己相対化は難しいでしょう。何故かといえば、例えば今度新しく議長と

なりました石橋秀雄さんは、議長に選ばれたときのコメントで、「見える教会は信仰告白と聖礼典と教

会法により現実化される」と言っています。これは教憲教規が教会の土俵だという考え方に通じる理解

です。「信仰告白も聖礼典も教会法(教憲教規)」も、これらは伝統的に教会が拠って立つ「聖書と伝

統」ということからしますと、三つともすべて「伝統」に属するものです。教会は、伝統を大切にしな

がらも、今ここでという今日的な状況の中で「み言葉(聖書)によって改革される」ところに存立して

ゆくコイノーニアです。今の教団執行部側の方々は、あまり聖書(み言葉)については語りません。聖

書の諸文書そのものからメッセージを受け取っていくということではなく、聖書も信仰告白や教会の教

義によって解釈する立場をとっていると思われます。信仰告白や教会の教義によって聖書を解釈するな

らば、聖書を統合的に解釈できるからです。現代の聖書学にと基づいて聖書を理解するならば、各文書

の特徴は明らかとなったとしても、聖書全体を貫く救済史のようなものがあるかというと、はなはだ疑

わしいということにならざるを得ません。けれども、聖書の諸文書を限定されたある時と場にあって信

仰を持って生き抜いた書き手と読み手との交感の文書としてみるとき、現代を信仰を持って生き抜こう

としている私たちにも聖書は道しるべとなる書物であると私は思います。私はそのような意味で聖書を

カノン(規準)と考えています。フェミニストの方々が聖書から読み取ったこと、障がい者の方々が聖

書から読み取ったこと、さまざまな立場の人が聖書から読み取ったことと、私自身が聖書から読み取っ

たことを対話させながら、私自身では読み取れなかった聖書の真理性に突き動かされながら、同じ聖書

と格闘して生きている方々と共に歩んでいく場として、私は教会を考えています。「自立と共生の場と

しての教会」です。私は伝統としての日本基督教団という教会に所属していますが、私自身の実存は、

現代という時代から問われ、聖書からも問われ、その往還の中で試行錯誤しながら生きているのです。

それ以上でも、それ以下でもありません。私は日本基督教団という教会に所属していますが、日本基督

教団という教会に埋没してはいません。私の実存は日本基督教団という教会からも自由です。自由だか

らこそ、私には創造性が与えられているのではないかと思っています。


            「死ぬことを許す」     12月5日


 私たちの家族や友人に差し出すことの出来る最もすばらし贈り物の一つは、よく死ぬことに向けて準

備する手助けをすることです。当人たちは神のみもとに行く準備が出来ているのに、私たちの方が彼ら

を行かせるのに困難な時がよくあります。けれども、愛する人々が、ふるさとである神のもとに帰るの

を認めなければならない時が来ます。愛する人のそばに静かに座り、語りかけましょう。「恐れないで

・・・・・私はあなたを愛しています。神さまはあなたを愛しておられます。・・・・・安らかに行く時が来まし

た。・・・・・もう引き止めません。・・・・私のことは心配しないで、あなたのふるさとに帰っていいのです。

・・・・・行きなさい。心安らかに、私の愛と共に」と。心からこのように言うことは真の贈り物となるで

しょう。これこそが愛が与えることの出来る最高の贈り物です。

 死に臨んで、イエスは言われました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)。この

言葉を、死を迎えつつある友と共に何度も繰り返すのはよいことです。この言葉を口にする時、また心

に刻む時、死を迎えつつある友は、イエスと同じ出発をすることが出来るでしょう。


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)