なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(583)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(583)復刻版を掲載します。2010年11月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(583)[Ⅻ-09]2010・11・28発行)復刻版


 久しぶりに26日(金)にオリーブの会がありました。オリーブの会では、今は天上の住人に加えられて

いますIさんの発案で、毎回創世記から1章ずつ聖書の輪読を行っています。26日は創世記26章でした。こ

の箇所には井戸を巡る争いの記事があります。またイサクとペリシテ人の王アビメレクの契約の記事があ

ります。水を巡る争いと契約について、私は輪読後にお話をしました。

 水についてはTさんの専門ですが、確か以前にもお話を聞いたことがありますが、パレスチナとイスラ

エルの争いには、水の問題が根底にあるということでした。イザヤ・ベンダさんも『日本人とユダヤ人

の中で確か日本人はいつでも水を豊富に使えるので、水の貴重さについてはユダヤ人と比べてはるかに鈍

感であるというようなことが書かれていたように思います。水について最近のテレビで北海道の原野を買

う中国人の富裕者の話がありました。何故そんな所を買うのかというと、その場所には自然の豊かな水が

あるからだというのです。井戸の支配権をめぐるイサクの物語は、ある面で現代にも通じるということで

しょうか。アブラハム、イサクは神話的人物ですから、実際にいたのかどうかは分かりませんが、ただ背

後にはイスラエルの族長時代の歴史が反映されていることは確かでしょう。ですから歴史的には紀元前

1300年以上前ということになるでしょうか。その時代から現代まで、人類の歴史は水をめぐって争ってい

るということになるでしょう。人類は技術の獲得という面では大変な進歩を遂げていますが、集団同士で

争いを引き起こす人間関係においては、古代人も現代人もまったく変わっていません。イサクの時代のよ

うに井戸をめぐる争いとは違って、技術の進歩によって大変な破壊力をもっている軍事力が使われる現代

の方が、極めて非人間的なことが行われ易いと言えるかも知れません。井戸をめぐる争いというイサク物

語から、そんなことを考えました。

 もうひとつ契約ということです。「契約」という思想は旧約聖書新約聖書を貫く根本思想ということ

ができるでしょう。旧約聖書では出エジプト20章のシナイ契約が何と言っても中心だと思います。シナイ

契約とは、エジプトで奴隷であったイスラエルの民が神の奇跡的な導きによってモーセを指導者としてエ

ジプトを脱出し、シナイで神と契約を締結したという物語です。シナイ山に登ったモーセイスラエル

民と神ヤーウェとの契約のしるしとして二つの石に書かれた十戒を持ち帰り、エジプトから解放した神の

みを神とし、隣人の命と財産を奪わないという契約をイスラエルの民は神ヤーウェと結びます。このこと

イスラエル民族の出発点になります。イスラエルの民は契約共同体としてのアイデンティティーとユダ

ヤ民族としての民族的アイデンティティーの二つを持ち合わせています。民族的なアイデンティティーは

閉鎖的ですが、契約共同体としてアイデンティティーは閉鎖的ではありません。出エジプトの民が荒野の

彷徨を経てヨルダン川を渡ってパレスチナに入ってきて、山間部から地中海沿岸に向けての平地部分まで

定着するには相当の時間が経過したに違いありません。その間パレスチナの先住民とエジプトを脱出した

イスラエルの民がどのような関係を築いたのか、私には大変興味あるテーマです。部分的には暴力的な争

いがあったと思われますが、シナイ契約をアイデンティティーとする出エジプトの民は、十戒による統合、

つまりひとりの神、しかも奴隷であったイスラエルの民を解放した神の下に、隣人である他者の命と生活

を守る契約(誓約)共同体として団結力が旺盛であったが故に、他の部族共同体を引き付け吸収しながら

大きくなっていき、その内にパレスチナ全域に広がっていったのではないかと思うのです。とすれば、契

約共同体は民族や国家の壁を超えて人と人を繋ぐ強固な連帯を生み出すエネルギーを持っていると考えら

れます。新約聖書の教会は、ユダヤ人と非ユダヤ人(異邦人)の壁を超えて、イエスに連なるある種の契

約共同体としてローマ世界に広がっていったのではないでしょうか。私はこのような聖書の思想である神

と人、人と人との契約関係によって、異質な他者同士の人間がその異質性を認め合った上での連帯関係を

生み出すことができるように思うのです。その意味で、この聖書の思想は今日的にも十分人を生かす命を

持っていると思っています。


          「死すべき体、よみがえりの種」 11月28日


 私たちの死すべき体、肉と骨とは大地に戻っていきます。聖書の「コヘレトの言葉」の著者が言うよう

に「すべては一つのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返」(コヘレト3:30)ります。

けれども、復活の時、すなわち、神から新しい体をいただく時が来たら、私たちがこの肉体にあって生き

たすべてのことは、体において栄光を受けるでしょう。

 復活の時、私たちはどのような体をいただくのでしょうか。パウロは、死すべき体を復活の体の種と見

ています。「あなたがたが蒔くものは、死ななければいのちを得ないではありませんか。あなたが蒔くも

のは、後で出来る体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、み心のままに、それに

体を与え、一つひとつの種にそれぞれ体をお与えになります」(Iコリ15:36-38)。死すべき体にある時

と同じように、私たちは一人ひとりかけがえのない体として復活するでしょう。なぜなら、私たちを個人

として愛してくださる神は、私たち一人ひとりのユニークな関わりが栄光に満ちて輝くような体を私たち

に与えてくださるからです。 


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)