なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(582)

 黙想と祈りの夕べ通信(582)復刻版を掲載します。2010年11月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(582)[Ⅻ-08]2010・11・21発行)復刻版


 11月14日の日曜日の礼拝後に開かれました臨時総会で、私の地位保全仮処分申立の支援に関する件が

諮られ、出席者90パーセント近くの多くの方の賛成を得て、仮処分の裁判については全面的に教会が支

援してくださることが決まり、教会が開かれて聖餐を決断したことに今でも熱い思いを持っていてくれ

ることの証左だと、私自身はうれしく思いました。

 11月21日、今日の週報の準備を事務の方としていて、Sさんがコラムを寄せてくださったことを知り

ました。そのSさんのコラムを読ませていただいて、私の教師退任勧告以来の教団の状況とその問題点

が、短い文章の中に見事に言い表されていることを知って、驚くと共に喜びが溢れてきました。教団の

私への教師退任勧告以来の教団と私及び紅葉坂教会との折衝が、そもそも何事なのかということを正確

に教会員の方々がどれだけ認識しているのだろうか、私にはいささか不安に思えていました。2002年の

第33/18回教団総会から沖縄教区が教団とに距離を置くようになって以降の教団の歩みを知ってい

る者であれば、私の勧告・戒規問題が何故起こったのかが、ある程度分かるのではないかと思います。

しかし、その間の教団の歴史に疎い方は、私のこの問題が起こったのは何故なのかを理解することが難

しいと思われるからです。Sさんは、対策委員会の委員として、私の免職問題に関わっていてくださいま

すので、そうでない他の教会員の方とは情報量が多かったでしょう。しかし、情報量の多さと事柄の判

断は異なります。Sさんの認識はほぼ私の認識と同じです。

 たまたま教団ジャーナル「風」の編集委員の方から、急だが11月20日までに教団総会を踏まえて原稿

を寄せてもらいたいというメールが11月17日にありました。そこで私はSさんに了解をいただいて、「風」

の私の原稿の中に全文Sさんの週報コラムを入れさせていただくことにしました。

 さて、11月18日に私はS女学校の全校修養会に講師として招かれて、高校2年生全体に午前と午後2回お

話をする機会を与えられました。全体修養会のテーマは「平和を追い求める」でしたので、私はそのお話

の中で社会、特に3人以上の関係性を持った集団、国家でも企業でも学校でも、そして教会でも、その集

団の中で個人個人はどのような関係性を持っているのかということについてお話をしました。囲碁の碁

盤を例に出して、碁盤では線が交差する点を星と言いますが、集団における個人は、ひとつひとつの星

なのです。その星の組み合わせで囲碁の勝敗が決まります。ひとつの社会もそのひとつひとつの星の組

み合わせによって、その社会のあり様が決まります。大体人間の社会は縦の菱型になっていて、上の尖

った部分に富裕層や権力を持った人がいて、下の尖った部分にはその社会で抑圧疎外されている人がい

ます。S女学校の高2の子どもたちは「闇の子供たち」という映画の一部を観ているとお聞きしていまし

たので、下の尖ったところに「闇の子供たち」に出て来る 幼児売春や臓器売買の犠牲者の子どもたち

がいるのではないかということを申し上げました。そういう社会を碁盤にたとえれば、一人一人はその

碁盤の星のひとつなのです。お金持ちや権力者が、自分の言いなりに社会を動かしていこうとして、み

んながそれに抵抗せず従順であると、その社会の抑圧差別が恒常化してしまいます。しかし、一つ一つ

の星が自立して、縦ひし形の一番下にいる弱く小さくされている人々を大切にして彼ら彼女らに仕えて

いくようになって、上にいて自分の資本の増殖と権力の維持を求めて、支配抑圧を強化するその社会の

支配者に非暴力抵抗する星が多くなれば、その社会は変わっていきます。ひとりでは無理ですが、ひと

りである自分が変わらなければ社会も変わりません。けれども縦ひし形社会で多くの中間層の人々は上

昇志向が強く、上を見て上をめざして生きています。碁盤の多くの星が上をめざしているなら、資本と

権力の横暴を許してしまう社会を変えることはできません。ひとつひとつの星である個人が自立して、

最も弱く小さくされている方々との共生をめざすようになって、はじめて平和な社会が実現するのです。

つまり縦ひし形の社会ではなく円盤の上にみんなが一緒に生きていく社会です。聖書ではこのような社

会(神の国)は終末的希望ですが、その終末的希望を手放すことなく、この世を私たちは生きていくの

です。

 ですから、碁盤のひとつの星である個人が自立してしっかりと立って生きていくということは、本当

に大切なことなのです。囲碁をされる方はご存知ですが、ひとつの星に置かれたひとつの石が全局を決

定づけてしまうということも起こり得るのです。



           「期待をして待つ」    11月21日


 神を根気よく待つということには、喜びに溢れる期待が含まれています。期待することがなければ、

私たちは現在という時間のぬかるみの中で身動きが取れなくなってしまいます。私たちの心が期待に

膨らんでいる時、私たちは、全存在を挙げて、開かれた心で喜びの瞬間を受け止め、味わうことが出

来るでしょう。

 福音書のいたるところで、イエスは私たちが目を醒まし、注意を払っているようにと告げておられ

ます。パウロは次のように言っています。「兄弟姉妹たち・・・・・あなたがたが眠りから覚めるべき時が

既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は

更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」(ローマ13:11-12)。

こうして神が来られるのを喜びに心を膨らませて待つことは、私たちの生活に活力を与えてくれます。

神の私たちに対する約束は必ず成就するという期待をもっていると、私たちは、今歩いている道に出

来る限りの注意を向けることが出来るようになるでしょう。 
 

                (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)