なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(458)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(458)復刻版を掲載します。2008年7月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(458[-40]2008・7・6発行)復刻版


 関西に「教会と聖書」という機関紙を発行しているグループがあります。以前に頼まれてそこに書いた

私の文章があります。その文章を少しコンパクトにしたものを以下に載せさせてもらいます。

 私が「正教師」になったのは1979年だった。1969年4月私は東神大を出て「補教師」として最初の教会に

赴任した。東京の下町にある教会である。しばらくして教師検定問題が起こり、私は「正教師」受験を拒否

していたが、東京の下町の教会から紅葉坂教会の担任教師になり、1977年4月に名古屋の御器所教会に主任

担任教師として赴任した。御器所教会では私が「補教師」のままで主任担任教師を続けようと思えばできた

かもしれないが、私は教師検定試験を受検し「正教師」になった。

 そもそも私は教会における教師というものを一個教会での機能的専門職としてくらいにしか考えていな

い。たまたま教団に属する教会であれば、どの教会であったとしても戦時下の教団成立の軛を負っているの

で、日本基督教団何々教会という看板を簡単には外せない。そうである以上、日本基督教団に所属している

個教会にあっての教師は日本基督教団正教師か補教師か信徒伝道者を名乗る以外にないのである。今回私は

聖餐の問題で教団の「教師退任勧告」を受けた。しかし、私は実感としてこの勧告を深刻に感じることが出

来ないでいる。そもそも教団の教師とは何かが不明確だからである。前総会期の常議員会で二重教職制の問

題が「教憲第9条を検討する件」という形で議論された。当該委員会は方向性が出せないというのでお手挙

げになり、念願の二重教職制の問題の解決は先送りとなった。また、教師検定問題をとって見ても、何一つ

問われた問題に教団は誠実に応えていない。教師検定試験は見切り発車をして、組織としての教団を維持し

ているに過ぎない。二重職制制の問題は教団成立の問題に関わり、教師検定問題は万博・東神大の問題に関

わっているので、教会とは何かという根源的な問いがそこにはあるからである。

 教団は、そういう己自身からは教団という教会のアイデンティティをまだ創造できていない、未定型な教

会ではないかと私は思っている。唯一教団に所属する教会のアイデンティティがあるとすれば、負の歴史で

ある戦時下の教団成立を共有することにあるので、現在はまだそれ以外には何もないと思う。だから、教団

の中でどんな思想・信仰をもつ党派が活動しようが、私は何も違和感をもたない。しかし、どんな党派がど

のような信仰告白や職制の正当性を主張しようが、戦時下教団成立の問題とまともに向かい合い、この教団

の負の歴史への克服の可能性がそこに示されていない限り、私はその主張を受け入れることはできない。

「合同のとらえなおし」の課題とまともに向かい合うことをしようとしない、福音主義教会連合や連合長老

会、その背後にある東神大教授会が、どんなに正統信仰はこれだと主張しても、私は信用できない。東神大

は教団成立の問題に通底する機動隊導入の問題を自ら切開しなければ、何時まで経っても神学校としての再

生はあり得ないであろう。それほど教団成立の問題は教団に所属する教会にとってハードルの高い基本的な

課題であると、私は思っている。

 聖餐の問題について言えば、開くか閉じるかが基本的な問題ではなく、その教会の方向性ではないかと思

う。教会が「あなたがたの間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべ

ての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として

自分の命を献げるために来たのである」(マルコ43-45)というイエスの言葉にどう応えるかではない

か。いくら聖餐を開いたとしても教会の姿勢によっては実質的に閉じていることもあり得る。私は日雇い労

働者や野宿労働者の問題に関わっている寿地区センターを支える神奈川教区の寿地区活動委員会の責任をも

っているが、日雇い労働者や野宿労働者にとって教会の敷居は高い。教会は日雇い労働者や野宿労働者を排

除しているわけではないが、実際には排除してしまっているというところがある。そういう社会的に小さく

されている方々を排除して、教会が護教的な自己保身に陥るとき、教会は何時でも権力の僕に成り下がるの

ではないかと思う。私の中では聖餐を礼拝参加者の誰にでも開くということは、イエスに従ってこの世の最

も小さくされた人々と共に歩もうという教会の姿勢の現れであり、その教会の姿勢が教団成立の問題への克

服の一つの道ではないかと思っている。


            
         「妬みを越えて」          7月6日


 私たちの心には、たやすく妬みが起こります。放蕩息子の譬え話では、兄は父の財産を不品行な女たちと

一緒になって使い果たしたにもかかわらず、立派な出迎えを受けたということで弟を妬みます(ルカ15:30)。

また、ぶどう園の労働者の譬え話では、妬むのは、一日働いた労働者たちです。夕方五時頃に雇われた人々

が、自分たちと同じ支払いを受けたからです(マタイ20:1-16参照)。けれども、父は年上の息子に言います。

「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」(ルカ15:31)と。また、ぶどう園の主人は

言います。「私の気前よさをねたむのか」(マタイ20:15)と。

 神の無限の気前よさを本当に享受するなら、私たちは、兄弟姉妹が受けるものを感謝するようになるので

はないでしょうか。私たちの心に妬みの入り込む余地は全くなくなるのです。


                     (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)