なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(459)復刻版

黙想と祈りの夕べ通信(459)復刻版を掲載します。2008年7月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(459[-41]2008・7・13発行)復刻版


 今日の聖書朗読箇所の詩編139編は、神のまなざしのもとにある私たちの存在について記されているように

思いました。「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。座するのも立つのも知り 遠くから

わたしたちの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け わたしの道をことごとく通じておられる。

わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる」(1-4節)。「どこに行

けば あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうと

も、あなたはそこにいます。陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます」(7,8節)。今キリ

スト教入門講座で使っています富田正樹さんの『信じる気持ち~はじめてのキリスト教~』では、信仰とはそ

のような神のまなざしのもとに自分が生かされて生きているということを、いつも意識していることであると

言われています。それを富田さんは「三次元的思考」と言っています。このような神のまなざしによって私た

ちが自分を相対化できるということが、私たちの生にとって大変大きなことではないかと、私は思っています。

神のまなざしによる自己相対化とは、自己中心である私たちを神のまなざしから見直すということです。この

見直し、つまり自己に刃を向けるということがないと、人間は変われないのではないでしょうか。信仰にはそ

のように自己を問うという面があるように思います。ともすると、信仰は神による自己肯定という一面だけ

が強調されがちです。もちろん神による自己肯定、赦されて生かされている己への肯定がなければなりません。

神は無条件に私たちを愛し受け入れてくださっているからです。その上に立って神のまなざしによって自分が

問われていることを見失ってはならないのだと思います。それが神との対話的な関係ではないでしょうか。

 上記の私の発言に続いて一人の方からの発言がありました。テレビのドキュメントの中で、映画「レイン

マン」のモデルで良くご存知の重度自閉症サヴァン症候群)の話がありました。医者から見捨てられた時、

父親が愛情豊かに接し、彼の能力を見出し、彼は成長し、豊かなやさしさにあふれた顔をし、彼に出会った

人は彼から抱きしめられ癒されたと語っていました。最後の場面で彼は「自分にして欲しいと思うことを、

他の人にできたら世界は平和になります」と語っていました。聖書の言葉が出てきた時自分も日曜学校から

育ってきていて、聖句を暗唱してきているが、日曜学校で今まで聖句を暗記することを余り大事だとは思っ

てこなかった。けれどもその場面を見たとき、聖句の暗唱も大事なのかもしれないと思っている。その人に

出会っていろいろ心が揺れた。

 続けて、別の人の発言がありました。半年前から体調を崩し、そのことを通して神が共にいてくれること

を実感できたことは感謝であり、幸せであった。静に考える時間を与えられ、自分が所属している朗読のグ

ループの仲間の言葉を聞く耳がもてたので嬉しかった。昨日の朗読の会の総会で波立つような議題が出たり、

別に不備も出て、どうなるかと思っていたが、話し合うことでとても和やかに終わることができてよかった。

明日私は79歳の誕生日を迎えるのでお茶菓子を今日の会にもっていき、和やかさを出せてよかった。一人一

人の心の闇というか、人間って間違いや罪を犯しやすいものだとつくづくと思わされる。今日一日有意義な

日を過ごせた。神共にいたもうことを信じて生きる幸いを思う。

         
          「選ばれる」              7月13日


 イエスは神によって取り出されました。もっとよく言うなら、神によって選ばれました。イエスは選ばれ

た方です。神は永遠から、最も尊いみ子を世の救い主とするために選ばれました。選ばれるということは、

特別の関係を表わします。すなわちかけがえのないものとして知られ、愛され、選び出される、ということ

です。私たちの社会では、自分が選ばれているということは、他の人々は選ばれていないことを意味します。

けれどもこれは神の場合にはあてはまりません。私たちが選ばれているということを明らかにするために、

神はみ子を選ばれました。

 神の国には、競争も敵対もありません。神の子は、ご自身が選ばれていることを私たちと共有してくださ

います。神の国では、一人ひとりが尊く、かけがえのないものであり、一人ひとりに、他の人々もまた選ば

れていることを見出す目と、それを喜ぶ心が与えられています。
 
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)