なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(460)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(460)復刻版を掲載します。2008年7月のものです。


         黙想と祈りの夕べ通信(460[-42]2008・7・20発行)復刻版


 昨日、一昨日と教団常議員会が開催され、議長提案による私に戒規申立てを行う件が16票の賛成で可決さ

れました。私に再勧告への回答を求めたにも関わらず、私が回答を出す前に常議員会の議題が送られてきて、

そこに上記の議題が明記されていました。私の回答に関係なく私を排除したいのでしょう。愚かなことです。

一応報告しておきますが、それとは別に、今日の聖研でもお話しました、自分がよいことと思って人のため

に行った行為が、その人を傷つけてしまうということがあり、人のために何かをするということの難しさを

考えさせられます。差別や抑圧のない対等平等な関係で、相手の求めに応じた行為であれば、その人は傷つ

くこともなく私たちがしたことを喜んでくれるに違いありません。けれども、自分が良かれと思ってやった

ことによってその相手が傷つく場合には、私たちがやったことのどこかに自己満足があるのではないでしょ

うか。直接的に人のために何かをするということではなく、自分自身の在り様を問うことの大切さを思わさ

れます。自分の中にある権威主義差別意識を問い、それを克服していくことが、結果的に新しい他者との

関係の構築につながっていくことになるからです。人のために何かをするだけではなく、自己自身を問うこ

とも忘れてはならないと思います。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。今日の朗読聖書箇所に「地の塩」「世の光」と

いう言葉があった。今の日本や世界の状況をみたときに、自然だけでなく人間社会全てに矛盾が吹き出てい

る。世界の人口が60億と言われるが、その内の20億がキリスト教徒である。それだけのキリスト教徒がいて

も、この世界の暗さは加速していく。キリスト教の存在価値があるのか。教会は今の世の中に対して、いろ

いろな悩みをもっている人々に語りかける言葉をもっているのか。建物の中の教会に終わってしまっている

のではないか。日本人の宗教観の中で存在し続けるだけで、自分はどうすればよいか悩んで、そのことを問

い続けている。確固たる信念でやっている教会はどれだけあるのか。先日教区の常置委員会主催のセクシュ

アル・ハラスメントの講演会があり、Jさんという講師の方が、教会の中途半端さを指摘した。教会はさば

きとゆるしを語るが、曖昧であり、ちゃんとできないところがある。お前は人を裁けるか。赦すほどしっか

りしているか。事柄をうやむやにしてしまう。もっとしかりしないと、教会は単なる仲良しクラブ、自己満

足に終わってしまうのではないか。

 続いて、もう一人の方の発言がありました。用事があって、今遅れてこの会に参加したが、発言させても

らいたい。昨日、一昨日の常議員会で北村牧師に戒規申立てがなされるということで、自分も傍聴に行くと

全国性差別問題連絡会で出会い友人になったKさんと一緒になった。Kさんは『としょかんライオン』という

絵本を引用し今回の「教憲教規」をかざして教師退任を言う教団について批判する彼女の文章をみせてくれ

た。一日の帰りに早速絵本を買った。又その時Kさんは2年ほど前の本田哲郎さんの講演の報告書を持ってき

てくれた。その中に今回の教団で起こっている事柄についてどう考えるかとの質問に本田さんは「宗教とし

ての限界だと思っているんです。だから、ジョージ・ブッシュみたいなのが出てきても『教会だのに』とか

言ってはいけない。むしろ『教会だから』こそ、そういうのが出てくる。・・・・・『宗教として内臓さ

れた権威主義』であるから、そこに多くのものを期待してはいけないと思います。・・・・イエスも・・ユ

ダヤ教のリーダーたちは皆、彼を追い出そうとしたわけです。『宗教』の枠を必然的に超えてしまうのが

『福音』なんだと思います・・・」との言葉に出会った。そして絵本の中身と報告書を読むと何か穏やかな

気持ちにさせられた。Kさんは私への心配りで二つのものを準備してわざわざ持ってきてくれたのではないか

と気づかされた。そういう友人が与えられていることに感謝である。自分の心は揺れてはいないが、彼女の

存在とこのことを用意してくれ、分かち合い、宗教的意味というよりも人間的に共につながっているという

ことに感謝。そして彼女から教えられ、自分も他者に同じように出来る者になれるよう祈りたい。
 

        
         「私の隣人は誰?」            7月20日


 「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:38)と福音書は言っています。しかし、私の隣人とは誰の

ことでしょう。私たちはよく「私の隣人って、この地球で私が一緒に住んでいるすべての人のこと、特に、病

気の人とか飢えている人とか、死にかけている人とか、困っている人みんなのこと」とこの質問に答えます。

けれども、これはイエスが言っておられることではありません。「わたしの隣人とは誰ですか」という質問に

答えるため、善きサマリア人の話をなさった時(ルカ10:29-37)、イエスは次のように問いかけて話を締めく

くられました。「さて、あなたは・・・・、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。イエスが明ら

かにしておられる隣人とは、身ぐるみはがれ、殴られ、半死半生になって道ばたで横になっている気の毒な男

の人のことではありません。道をわたって、「傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿

屋に連れていって介抱し」たサマリア人のことです。私の隣人とは、私のために道を渡って来てくれる人のこ

とです。



                      (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)