なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(45)

      使徒言行録による説教(45)使徒言行録13:1-12
              
・最近3回の日曜日の説教は、使徒言行録とは別のテキストで説教しました。今日からまた、使徒言行録を続けて取り上げていきたいと思います。ただクリスマスの時期には、クリスマスに関連するテキストで説教することになると思います。

・さて、今日からは、使徒言行録の13章に入ります。使徒言行録は、13章から、それまではペテロが中心でしたが、パウロが中心に描かれていきます。13章、14章は第一回目のパウロの伝道旅行の記事になります。

・13章-3節は、そのパウロバルナバと共に、マルコを従えてアンティオキア教会から派遣されて、第一回目の伝道旅行に行くことが記されています。最初期の教会には、エルサレム教会に、ペテロをはじめとする生前のイエスの弟子達である使徒たちという、ある意味の指導者たちがいたように、アンティオキアの教会にも、指導者に当たる人たちがいたようです。13章の1節には、〈アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲル(これは「黒人」という意味です)と呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた〉と記されています。バルナバが最初に書かれていて、サウロ(パウロ)が最後に書かれているのは、アンティオキア教会の指導者としては、バルナバが一番古くから、サウロ(パウロ)が一番新しく加わったことを示しているものと思われます。ここに出ている5人の出身地は、広範囲にわたっています。バルナバは、第一回の伝道旅行の最初の訪問先であるキプロスです。ニゲルと呼ばれるシメオンは、アフリカ出身と考えられます。キレネ人のルキオは、キレネがアフリカですから、やはりアフリカ出身です。マナエンは領主ヘロデと一緒に育ったとありますので、ヘロデはローマで養育されたと言われていますので、ローマ出身と考えられます。サウロ(パウロ)はタルソ出身です。このような5人がアンティオキア教会に結集していたということは、驚くべきことです。彼らがアンティオキア教会の「預言者や教師」であったというのです。

パウロはコリントの信徒への手紙一の12章で、「神は教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、・・・」(28節)と記していますので、教会の中に、使徒に次ぐ存在として預言者や教師がいたことが考えられます。預言者とは、ヨハネ黙示録のように、黙示を受けて、それを人々に語り伝える人で、教師とは、イエスの言行を語り伝えて、人々を信仰に導き、その生活の訓練指導に当たる人のようです。

使徒言行録13章2節3節には、「彼らが」とありますが、この〈彼ら〉は5人の指導者だけではなく、アンティオキア教会の信徒たちも含まれていると思いわれます。〈彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって決めておいた仕事に当たらせるために」。そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた〉と記されています。この記事には、バルナバパウロの伝道旅行は、人の思いを越えて神ご自身の指示に基づいて、アンティオキア教会から送り出されてなされたものであるということが強調されています。バルナバパウロのある意味での世界伝道が、聖霊の示しである神ご自身から出たことであり、アンティオキア教会の人々は、断食をして祈り、按手をもって彼らを送り出したというのです。

・その当時の世界伝道に伴う困難がどんなに大きなものであるかを、送り出された二人だけでなく、送りだしたアンティオキア教会の人々も十分に知っていたでしょう。それでも敢えて二人を送り出す決断をアンテティオキア教会はしたのです。それが神から出たことだからという彼らの信仰と共に、イエスの福音によって与えられた彼らの自由と喜びを、自分たちだけのものにしていては、それを与えて下さった神さまに申し訳がないという思いが、アンティオキア教会の人々の中にはあったからでしょう。バルナバパウロは、そのようなアンティオキア教会の信仰と思いに押し出されて、世界伝道に向かっていったのではないかと思います。

・最近上村静さんの『キリスト教自己批判~明日の福音のために~』という小さな本を、藤沢ベテル伝道所のI牧師から勧められて購入し、読んでみました。上村さんは、この本の中で、「宗教の意義」について、こう述べています。〈宗教は、人間存在肯定の絶対的根拠を提示するという役目がある。聖書という神話によれば、人間は「神の似姿」として創造された。それは、だれもが等しく尊厳を与えられた「いのち」であること、相対にして肯定されて在る「いのち」であること、その「いのち」の人間支配は認められたことを意味する〉(p.34)と。

・アンティオキア教会に結集した人々もそうだと思いますが、イエスの福音によって目覚めた人々は、まさしく上村さんが言うところの「いのち」の尊厳に目覚めた人々ではないでしょうか。他の人間による支配の下にではなく、また、自分自身も支配できない、「人間存在の絶対的根拠を提示する」神による祝福としての、誰もが等しく与えられている「いのち」の尊厳への目覚めです。

・上村静さんは、その上に立って、さらに〈そういう視点から世界を見れば、世界が全く新しく見えること、新しく「意味づけ」できること、新しい「歴史」を形成できること、その希望を宗教は人びとに与えることができる〉(p.34~p.35)と言っています。この「宗教は」と上村さんが言っているところを、私は「本来のイエスの福音は」に置き換えたいと思います。上村さんは「キリスト教自己批判」を書いていますから、敢えて「宗教は」と言っているのでしょうが、「本来のイエスの福音」は、私たちに新しい歴史形成とこの暗黒の世にあっても、絶望ではなく希望を与えるインパクトそのものではないでしょうか。

バルナバパウロも、そのような新しい視点で世界を見ることを、イエスの福音から与えられて、〈世界が全く新しく見えること、新しく「意味づけ」できること、新しい「歴史」を形成できることを、その希望を人びとに与えるために、世界伝道へと出発して行ったのではないでしょうか。決して単なる教会の教勢拡張が目的ではなかったと思います。

・それはパウロの伝道方法にも現われています。パウロはローマの植民都市を中心に、そこにあるユダヤ教の会堂を拠点に伝道活動を展開しました。そしてその町に小さくとも信徒の集まりである教会が出来ると、その教会に周辺の地域への福音宣教を任せて、他の都市に移っていきました。パウロは終末の切迫を感じていましたから、終末が来る前に世界中に福音を宣べ伝えたいと思っていました。ですから、教会の教勢の拡張というよりは、全ての人に福音を知らせたいという一心であったと思われます。

・〈聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向けて船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った〉(13:4-6)というのです。「バルイエス」というのは「イエスの子」という意味です。ルカはこの人物を、「偽預言者」であると決めつけています。しかし、彼は地方総督セルギオ・パウルスのところに出入りしていたと言われており、セルギオ・パウルスのある種のお抱え魔術師だったと思われます。当時の宮廷には、お抱え哲学者や祭司などの宗教家がいたようで、おそらくバルイエスは、ユダヤ教の宗教家として、そのような地方総督セルギオ・パウルスのお抱えの一人だったと思われます。セルギオ・パウルスは、バルナバとサウロを招き入れて、神の言葉を聞こうとしました。すると、バルイエスは、〈二人に対抗して、地方総督をこの信仰(バルナバとサウロが説く)から遠ざけようとした〉(13:8)といいうのです。すると、〈パウロと呼ばれているサウロは、聖霊に満たされて、魔術師をにらみつけて〉、〈ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてゆがめようとしているのか。今こそ、主のみ手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう〉(13:10-11)と言います。〈すると、たちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った〉(13:11、12)というのです。

バルナバパウロの宣教は、神のもとに生かされていのちの尊厳を生きる者へと、人びとを導く福音であるとすれば、魔術師の存在の余地は全くありません。現代のように科学がいかに進歩しても、占いや姓名判断、加持祈祷のたぐいは一向に衰える気配がなく、むしろ繁栄と幸福を神として祈願する宗教的営みはますます広く人びとの魂をとらえているように思われます。自分の好都合と見れば、どんな神(たまには悪霊)でも利用して、うまく立ち回ろうとする、節操のない人間をつくるばかりでなく、これらの霊を制御し得る立場の魔術師は、自分の意のままに人をあやつることができる、つまり倫理的基盤そのものを崩壊するのであります(高橋三郎)。

・今はどうしているか分かりませんが、お笑い芸人のオセロの中島知子さんが、或る霊能者の影響で、芸能事務所を解雇されたことがあります。テレビでこの人の様子を見ていましたら、まさに何者かにあやつられているように思われました。その状態での彼女の中には、生きる主体としての自由な人格を感じることはできませんでした。

バルナバパウロの宣べ伝えたイエスの福音は、そのような魔術師に支配されている人びとを、そこから解放して、一人の〈いのち〉ある人間として、その尊厳に立って、神と隣人の前に、責任的に生きる者とするのではないでしょうか。今日の使徒言行録では、バルナバパウロキプロス伝道において、キプロスに教会が誕生したかどうかは、何も記されていませんので、分かりません。神の言葉(福音)が伝えられ、福音によって生きる者が生まれることが、バルナバパウロの目的で会って、教会が誕生するかどうかではないでしょう。教会の誕生は結果論にすぎないのです。

・私は、すでにみなさんにも報告しましたように、10月16日―27日と神戸の須磨にある国民宿舎で行われました、兵庫教区の教師部研修会に行ってきました。そこでの主題も「現場から『伝道』を考える」でした。具体的な人との関係性の中で、何を伝えるのか。伝えたい福音がなければ、問題にもなりません。しかし、もし私たちが、イエスの福音との出会いによって、誰にも等しく与えられている〈いのち〉の尊厳に目覚めて、そこから人間と世界を見直し、新しい歴史形成への希望を与えられているとするなら、その〈いのち〉をさまざまな暴力によって踏みにじる現代の社会にあって、まさにバルナバパウロの世界伝道を継承する課題が私たちに与えられているのではないでしょうか。教勢拡張を目的にした伝道ではなく、神に与えられた〈いのちの尊厳〉への目覚めを促し、そこに視座を据えた新しい世界の出現のために共に働く人びとが与えられることを、祈り、願い、その希望に生きることへと、私たちも招かれているのではないでしょうか。

・今も魔術師に自分の未来を託する人が多い現実の中で、私たちの責任の重大さを思わざるを得ません。