なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(294)復刻版

 今日も「黙想と祈りの夕べ通信(294)復刻版を掲載します。2005年5月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(294[-33]2005・5.15発行)復刻版


 11日の黙想と祈りの夕べの出席者は、K伝道師と私の二人でした。連れ合いは月曜から土曜日ま

辺野古に出掛けました。いつも出席するK・Tさんも体調を崩し、欠席しました。そこで黙想と

祈りの夕べの中の「分かち合い」では、それぞれ祈りの課題を挙げることにしました。Kさんは、

その日の午後関内の教育会館で開催されていた絵画展を観てきて、その中の一つの絵からインパク

トを受け、不当な形で獄中にある人々、拷問などによって命を失った人々、その家族のことを覚え

て祈りたいと言われました。絵画展で観た一つの絵とは、獄中にある女性の絵だったようです。私

は8日〔日〕の午後紅葉坂教会で開かれた若者の辺野古報告会に出席して4人の若者の発言を聞い

て、それぞれの若者が沖縄に基地を押し付け、普天間基地返還の代替とは言いながら、また新たに

辺野古に基地を作ろうとしている国のやり方に否を唱え、基地のない社会を求めて、現実を変えよ

うと立ち上がっていることを覚えて、祈りの課題にしたいと言いました。

 4人の青年が辺野古に関わって得たものは、一人の人間として自分は何に命をかけて生きるかと

いうことではないかと、4人のそれぞれの発言を聞いていて思わされました。そのことは私自身の

問題でもありますが、その意味で青年たちから大いに刺激を与えられました。4人の中の一人は高

校一年生と言っていました。彼女は中学一年生の時にアメリカのイラク攻撃が始まり、学校が終わ

るとアメリカ大使館前で座り込みをする生活を、夜寝袋で横になると、警官に寝てはいけない、立

っていろと言われたりしながら、2ヶ月続けたということです。中学3年生の時に沖縄に行き、戦跡

をめぐり、辺野古に行き、それから辺野古との関わりができて、辺野古の現地行動にも参加するよ

うになったというのです。話を聞いていると、高校一年生とは思えない落ち着きがあり、びっくり

させられました。他の3人は上智大学の大学院一年生の女の人とTさんと農伝のIさんです。それ

ぞれ辺野古との出会いから、東京で何ができるか、集まって活動することになったそうです。Iさ

んは、昨年の夏、農伝からの夏期伝道実習でT・Nさんの牧会している沖縄の伝道所に派遣され、

そのまま休学して今年3月まで辺野古での阻止行動に参加しました。その間沖縄では沖縄キリスト

教大学の敷地に米軍のヘリが墜落する事件が起きました。その時Iさんも現地にいて、仲間と共に

ヘリ墜落現場に駆けつけたそうです。けれども、すでに米兵によって立ち入り禁止地域が出来てい

て、そこには行政の責任者も日本の警察も入れなかったということを、自分の目で見たそうです。

しかも墜落現場は、周辺の土まで米軍が持ち去って、何一つ墜落の証拠を残さなかったということ

です。Iさんはその事実を自分の目で見て、沖縄が日本でありながら日本でないという現実に強い

怒りをもち、人殺しにつながるすべての基地撤去こそが、今われわれが切実に求められていること

であると思われたようです。辺野古での闘いがその希望の芽であることを、強く訴えられ、辺野古

で勝つことができれば、沖縄から基地を撤去し、神奈川の基地もすべて撤去する原動力になり得る

と、熱を込めて訴えられました。私はこの4人の青年の発言を聞きながら、心の奥深くから揺さぶ

られる思いを、戸惑いながらも快く受け入れていました。このような若者の感性と行動の火に水を

かけて消すことだけはしてはいけないと思いました。若者のように日常と非日常を自由に行き来す

る柔軟性は、私には大分失われているとは思いますが、基地のない世界をめざすことにおいては私

も若者と変わらないと思っています。