今日も「黙想と祈りの夕べ通信(293)」復刻版を掲載します。2005年5月のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(293[-32]2005・5.8発行)復刻版
ゴールデンウィークのお休みのときでしたが、4日(水)の夜に祈祷会がありました。司会奨励は信和
会のFさんがしてくださいました。パレスチナとイスラエルの問題についてお話ししてくれました。Fさ
んは前にも同じテーマでおはなししてくださいましたので、この現代の世界が抱えている難問題のひとつ
に以前から関心を持ち、資料にも当ってこられたのではないかと思います。復讐の連鎖によって双方の憎
しみが過剰にまで増大していく歴史が和解と平和に結実するにはどうしたらよいのでしょうか。Fさんの
お話を聞きながら、そのことを考えていました。以前にチェチェンの女性が自爆テロを志願した理由が、
自分の弟や肉親がロシアの軍隊に殺されたその復讐であるということを聞いたことがあります。またユー
ゴの内戦でクロアチア人とセルビア人の民族的な憎しみが大変なものであることを、本で読んだことがあ
ります。銃弾を家に撃ち込んだとき、その家のトイレの便器にまで銃弾が撃ち込まれていたということが
書いてありました。トイレの便器にまで銃弾を撃ち込むというその人の精神は、想像を超えていますが、
尋常でない憎しみの現われではないかと思われます。相手の民族を殲滅させてしまいたいということなの
でしょう。恐ろしいまでの憎しみが民族間の長い葛藤の歴史の中で相互に培われてきたのでしょう。その
ような憎しみによる暴力の連鎖を止めることはできるのでしょうか。以前竹中千春という国際政治学者が
書いた『世界はなぜ仲良くできないのか?~暴力の連鎖を解くために~』という本を読んだことがありま
す。竹中千春さんは「痛みの共有」がそのきっかけを与えるのではないかと言っています。「多くの人々
が『ああ、痛い』と感じる力によって他人の痛みを共有し、安全と危険や豊かさと貧しさの格差を越え、
さらに国境を越えて、仲間意識を作ることができるかどうか。筆者としては、まだ結論を下すまでに至っ
ていませんが、これが、現代世界の暴力の連鎖を解く鍵だと思っています」と。そして著者がインドの知
識人および人権活動家で、上院議員を務めたこともあるラージモーハン・ガンディーという人へのインタ
ビューの記事に記されていました。「マハートマ・ガンディーの非暴力の思想は、21世紀にも意義を持つ
か」との質問に対して、ガンディーは次のように答えられたというのです。「テロが再発する恐怖に人類
はおびえている。しかし、暗闇を光が照らすように、今ほど非暴力の価値が感じられる時もない。貧富・
宗教・民族を巡って分断され対立する人々の間に、対話と和解という懸け橋を築こう。テロで父を亡くし
たニューヨークの子どもと、戦争で足を失ったアフガニスタンの子どもが心を通わせられるか。人類の未
来は、その可能性にかかっている」と。この最後のところも痛みの共有ということではないかと思いま
す。実際私たちにおいても、戦後二度と戦争はしてはならないと強く感じて、現在でもその思いを持続し
ておられる方の中には、自分の息子や娘を戦争で失った女性の方が多いように思われます。実際私たちの
中での「痛みの共有」が、暴力の連鎖を断ち、対話と和解による平和への道を忍耐強く求めてゆく力にな
っていくのではないかと思います。戦後も60年が経った現在の日本においては、戦争を知らない世代の人
が圧倒的に多くなっています。そういう世代の人間が「痛みの共有」をどこまで持つことができるかが大
きな課題です。そのためには歴史をしっかり学ぶことが必要ではないかと思います。その意味でも、5月2
9日の「ひめゆり予科一年生」のUさんの沖縄戦のお話を心して聞きたいと思います。