なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(461)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(461)復刻版を掲載します。2008年7月のものです。


     黙想と祈りの夕べ通信(461[-43]2008・7・27発行)復刻版


 今日の聖書朗読箇所マタイによる福音書26章14節以下はイスカリオテのユダの裏切りの箇所

です。イスカリオテのユダについてはいろいろなことが言われていますが、イエスは裏切り者のユ

ダでしたが、彼を最後まで弟子の一人として受け止めていたのではないかと思います。イエスは自

分を裏切るユダに対して「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のために

よかった」と言われたといいます。しかし、イエスイスカリオテのユダも含む弟子たちと過ぎ越

しの食卓を共に囲みました。バルトは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダイエス・キリスト

の救済に与かっていると言いました。私もそのことを大切に牧師としての働きを担ってきたつもり

です。ところで、歴史的に見て、イスカリオテのユダの裏切りが事実だとしたら、ユダはどうして

エスを裏切ったのでしょうか。一つの解釈としては、ユダはイエスを当時のユダヤ人が信じてい

た政治的メシアとして信じてイエスに従った。けれども、イエスは一向に政治的メシアとして立ち

上がろうとはしないので、ユダは自分が裏切って大祭司たちにイエスを売り渡せば、ついにイエス

は政治的メシアとして立ち上がるだろうと思ったというのです。ユダの裏切りはそういうことだっ

たのかも知れません。いずれにしてもイエスと弟子のユダとの間には、特にユダの側からすると、

エスへの無理解と誤解でいっぱいだったということでしょう。このことは私たちにおいても全く

かわらないのではないでしょうか。イエスを本当には理解していない愚かな私たちを受けとめ、包

み込み、私たちを新たにしてくださるイエスだからこそ、私たちもイエスを信じて生きていくこと

ができるのではないでしょうか。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。先週のこの集会に遅刻したのは、名古

屋から客が来ていたからである。その中のKさんとは、2歳の頃に障がいをもっていることが分かり、

私も週一回Kさんの自宅に通っていたので小さい頃の付き合いがある。おばあさんとお母さんと今、

25歳になっているKさんが訪ねて来た。25歳の彼女は作業所に通っており、母親も仕事をしているの

で、その送り迎えにガイドヘルパーを頼んでいる。彼女の通っている施設は教団の教会が設立した

施設である。その施設からガイドヘルパーを頼んでいる。しかし、ガイドヘルパーの人数が足りな

いので、その施設から他の所にKさんのガイドヘルパーを頼んでくださいと、母親が言われている。

母親はガイドヘルパーもその派遣元がキリスト教主義でないと、と心配している。この母親はクリ

スチャンホームで恵まれて育っているので、キリスト教幻想が強いのだと思う。何時も私が話して

いる障がい児の介護ヘルパー派遣のNPOの運営は全くキリスト教主義ではないが、毎週月曜日に行わ

れるカンファレンスで、それぞれのヘルパーの報告を聞いていると、それぞれ丁寧で細やかな配慮

で障がいを持つ子供たちに接しているかがわかり、信頼のおける方々である。ガイトヘルパーとし

て雨の時は大変だと思うが、文句ひとつなく心から仕事をしている。重度のお子さんのところに行

かれた方が、そのお子さんに季節を感じてもらおうと、ビデオで花火を見せ、いろいろな色紙を用

意して台紙に花火を描いたらその子が喜んでくれたという報告もあった。ひとりひとりの人が一生

懸命考えて行動してくれている。今日(7月20日)のナウエンの言う隣人のように、隣人のために

何かをするということではなく、隣人からエネルギーを引き出されて、させてもらうのではないか。

宗教とも、キリスト教とも関係なく、お互いに隣人になっているということがあるのではないか。

今回の聖餐のこともそうだが、教会だけが絶対ではないよ、と言いたいと思っている。

 続いて別の人の発言がありました。今のお話と関わるが、自分は毎日の生活ではクリスチャンと

いう意識を持たないでいて、周りからはクリスチャンと思われるようになれたらと願っている。そ

ういう体験をすることができたので嬉しかった。今日朝からお昼まで病院にいた。死んだ夫の妹が

その病院にかかりたいと言ったので、今日一緒に行った。院長さんと整形外科の先生に診てもらっ

た。普段より込み合っていたので、お昼までかかった。義妹はこんなに丁寧に診てもらったのは今

までなかったと言って、大変喜んでくれた。お昼を一緒にして義妹と別れた。自分も気持ちよく、

平安な気持ちになって、体調もよい。神の恵みを感じる。


         「霊的な生活の窓」      7月27日


 感情の生活と霊の生活とは区別されるものですが、この二つは互いに深く影響を及ぼし合います。

感情は私たちの霊的な旅路への窓を開いていてくれることがよくあります。妬む思いを取り払うこ

とが出来ない時、私たちの内にあって、「アッバ、お父さん」と叫んでいる聖霊に触れているかど

うかに思い到るかもしれません。非常に心が落ち着き、自分の中心に戻ったように感じる時、これ

は私たちが愛されているということを深く悟ったしるしであると気づくようになるでしょう。

 同じように、私たちの内におられる聖霊の現存への誠実な応答として生きられる祈りの生活もま

た、私たちの感情、気持ち、情熱に窓を開き、神のみ心に向かう私たちの長い旅路において、それ

らをどのように役立てるかの指示を与えてくれます。


                 (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)