なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(73)

      使徒言行録による説教(73)使徒言行録19:28-40
              
・「手で造ったものなど神ではない」というパウロの宣教に、自分の仕事が奪われるのではないかと

危機感をもった、アルテミス神殿の模型を作って売っていた銀細工人デメテリオは、同じ仕事仲間を

集めてアジ演説をしました。このデメテリオのアジ演説がきっかけとなって、エフェソに暴動に結び

つきかねなかった騒動が起きたのです。

・<これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。そし

て、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であり、マケドニア人ガイオとアリスタルコ

を捕えて、一団となって野外劇場になだれ込んだ>(28,29節)と言われています。

・ここに記されています「野外劇場」は、エフェソに現在でもある劇場で、<近代になって多少修復

してはいるけれども、ほとんど全体がきれいに残ってい>て、<今日の遺跡が残っているギリシャ

ローマの劇場では、最大のものとして有名である>と言われています。<観客収容人員は最大で

25,000人というのだから、巨大な劇場である。観客席のてっぺんに上ると、オルケルトラ(合唱隊が

歌ったり踊ったりする半円形の土間)など、小さなテレビ画面の大きさぐらいにしか見えない。この

劇場に大勢の人間が押しかけて騒いだのだから、ちょっとした騒動だったろう>(田川)と言われて

います。

パウロの伝道助手であったと思われるマケドニア人ガイオとアリスタルコという二人が捕えられ、

引き立てられていったので、パウロも群衆の中に入っていこうとしましたが、弟子たちがそれを止め

ました。新共同訳聖書では、31節に<他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、

パウロに使いをやって、劇場に入らないように頼んだ>と記されています。ここに<アジア州の祭儀

をつかさどる高官たち>と訳されている原語は、「アジア」という語に、「筆頭者、支配者」などを

意味する語をくっつけた単語で、「高官」のような現役の官僚を意味するものではなく、「地元の住

民の代表」「町の有力な顔役」を意味するものと思われます(田川)。

・そのような「町の有力な顔役」とパウロが知り合いになっていたというのですから、「キリスト教

がけっこう町の上層階級にも浸透しようと努力していたことを示す>(田川)ものと言えるでしょう。

このことは、ローマ帝国の属州アジア州にあるエフェソの町に、パウロらの宣教活動によって誕生し

キリスト教が、町の有力者とも何らかの関係があって、決してローマ帝国にとってキリスト教が敵

対的な関係にはなかったという、ある護教的な意図が感じられます。おそらく使徒言行録の著者ルカ

は、そのような意図でこの使徒言行録を書いているのではないかと思われます。

・<さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集

まったのかさえ分からなかった>(32節)というのです。<その時、ユダヤ人が前へ押し出したアレ

クサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制して、群衆に向

かって弁明しようとした>(33節)のです。<しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は一斉に

「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間半ほど叫び続けた>(34節)というのです。非ユダヤ

がほとんどであった群衆には、日常的にユダヤ人への差別があったのかも知れません。「エフェソ人

のアルテミスは偉い方」という叫びには、エフェソの町に住む非ユダヤ人のアイデンティティーであ

ったアルテミス神殿とそこに祀られている女神アルテミスへの賛美を通して、エフェソの町へのある

種の愛着心のようなものが表わされていたのかも知れません。

・「エフェソ人のアルテミスは偉い方」という2時間半に及び叫び続ける群衆の熱狂が、暴動に転化

する危険性は、相当に濃厚だったと思われます。エフェソの町に暴動が起きて一番困るのは、エフェ

ソの町を管理していた役人だったと思われます。暴動が起きれば、その管理の責任を問われて、自分

の職を失うことになるかも知れないからです。<そこで、町の書記官が群衆をなだめて>、群衆を説

得したというのです。その説得の中に、<諸君ここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、

我々の女神を冒涜したのでもない>と、パウロの伝道助手たちを弁護しているところがあります。こ

の書記官の言葉には、アルテミス神殿と女神アルテミス崇拝とキリスト教は、敵対的な関係ではなく、

共存できる関係であることが言外に語られているように思われます。ここにも、ルカの護教的な姿勢

が垣間見ることができるかも知れません。エフェソの書記官は群衆に対して、<デメトリオと仲間職

人がだれかを訴え出たいのなら、決められた法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を

訴え出なさい。それ以外のことで更に要求がるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。本日

のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ

弁護する理由はないからだ」。こう言って書記官は集会を解散させた>(38-40節)。暴動一歩手前で、

エフェソの騒動がおさまったというのです。

パウロは、自ら書いた第一コリントの手紙10章32節では、<エフェソで獣と戦った>と述べていま

す。また、第二コリント1章8,9節では、<兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、

ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってし

まいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、

死者を復活さる神を頼りにするようになりました>と述べています。ここでは、アジア州で出会った

苦難について述べていますが、具体的にはエフェソで窮地に陥ったことではないかと思われます。こ

のようなパウロの記述からすれば、使徒言行録のルカの記事との違いは明らかに思われます。

・この違いは、使徒言行録の著者ルカの護教的な姿勢によるものではないかと思われます。ローマ社

会の中でのキリスト教は、ローマ社会に敵対的な宗教ではなかった。十分ローマ社会に受け入れられ

るものであったと、ルカは言いたいのでしょう。けれども、ルカが描いている以上に、ローマ社会に

とってパウロらの福音宣教によって誕生した教会(キリスト教)は異質な存在であったのではないで

しょうか。少なくとも、今引用しましたパウロの言葉からすれば、そのように考えられます。

・フィリピの信徒への手紙3章17節以下に、パウロは、有名な<しかし、わたしたちの国籍は天にあ

る>(口語訳)という言葉を述べています。そのところでパウロは、フィリピの信徒に対して<主

(イエス)によって、しっかり立ちなさい>と勧めているのです。少し長くなりますが、この箇所

を読んでみます。

・<兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じようにわたしを模範

として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙しながら言いますが、キリ

ストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を

神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は

天にあります(これは新共同訳です)。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、

わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたした

ちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。だから、わたしが愛し、慕

っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと

立ちなさい>(3:17-4:1)。

・このパウロの言葉は、パウロキリスト者に向かって、この世と妥協せずに、「主によってしっか

り立ちなさい」と勧めている言葉です。「何度も言ってきたし、今また涙しながら言います」と言っ

て、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」とパウロは語っています。そして、

そのような人たちは、自分の「腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていま

せん」と言っています。そういう人々と、主イエスを信じて生きている自分たちとは、基本的に違う

んだと、パウロは言っているのです。「わたしたちの国籍は天にある」という言葉でパウロは、私た

ちは神の民だ、イエスの仲間だというキリスト者である私たちのアイデンティティーを明確に示して

いるのです。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、

御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」と言って、パウロは、キリストによって、イ

エス・キリストを信じるキリスト者がキリストに似る者に変えられていくというのです。イミタチオ

・クリスティ(キリストに倣いて)。

・私たちは、このパウロの信仰がキリスト者の独善に陥りやすい面があることを十分警戒しつつ、し

かし、パウロが勧めている「主によってしっかりと立つ」こと、イエスと共に、また隣人と共に、す

べての人と共に神の国を生きることはめざしたいと思うのです。

・今日の船越通信には、日本基督教団の部落解放センターが、安倍政権が進めようとしている集団自

衛権の容認と辺野古基地建設への抗議文を支持し、掲載しておきました。辺野古では、民間人が入る

ことのできない制限区域を閣議で拡大して、政府は基地建設を開始しています。また、政府は集団自

衛権を閣議決定し、今後法律を一つ一つ改訂して、アメリカと共に戦争ができるようにしようとして

います。確実に安倍政権は、かつて日本の国が犯した過ちに至る道にこの日本の国を導こうとしてい

ます。沖縄を切り捨て、東日本大震災と福島東京電力第一原発事故による被災者を切り捨て、戦争の

できる国造りに邁進する安倍政権に、私たちは否を表明したいと思います。アメリカの一部のキリス

ト教のようにブッシュのイラクアフガニスタン戦争を無批判に認め、そのために祈るようなキリス

ト教であり、第二次世界大戦下の日本基督教団のようなキリスト教であるならば、イミタチオ・クリ

スティ(キリストに倣いて)を失って、護教的なキリスト教に転落してしまいます。

・私は最近孫崎亨さんの本で、2001年9月11日の同時多発テロが、アメリカ国民を戦争にかりたてるた

めに仕組まれたものではないかとする記述を読んで、そうではないかと思っていましたので、戦争屋

があらゆる手段を使って、一つの国をそのような方向に向けていくその策謀の恐ろしさに改めて気づ

かされました。そういう力が策動している現実社会にあって、私たちはイエスの福音に根差して、

「然りは然り、否は否」と言える者として、弱く小さくはあっても福音の灯をともし続けていく者で

ありたいと思います。その時に、私たちもイエスの十字架を負うことになりますが、私たちが十字架

を避けて安易な道に行くことがないように、神の助けを祈りつつ、今日の日本社会の中で「主によっ

てしかり立って」歩んでいけますように。アーメン。