なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(71)

 以下は、2014年6月28日のブログに掲載したものです。書庫に「使徒言行録による説教」を新しく加え、

整理していた時に、(71)を削除してまいましたので、ここに再録しておきます。

         使徒言行録による説教(71)使徒言行録19:11―20節
                   
・エフェソにおけるパウロの福音宣教の働きには、福音書に記されていますイエスの働きと同じように、

言葉と業による働きがあったと、この使徒言行録には記されています。

19章11節に、「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」と言われ、そして「彼が身に着けてい

る手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊も出ていくほどであった」

(19:12)というのです。この使徒言行録による著者ルカによる言及は、パウロ自身が語っていることからし

ても、その歴史性を疑うことはできません。パウロはローマの信徒への手紙で、「キリストは異邦人を神に

従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれまし

た」(15:18,19)と語っています。ただ使徒言行録でルカが記しているような、パウロが身に着けていた「手

ぬぐいや前掛け」にまでに、病気を癒したり、悪霊を追い出したりする奇跡的な力があったということが事

実なのかどうかまではよくわかりません。そんなことはなかったと断定もできません。

・イエスの場合、イエスの服の房にふれただけで人々は癒されたと言われています(マル  コ6:56)。また、

ペテロについては、「ペテロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした」

使徒5:15)ら、癒されたと言われています。おそらく、「パウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持

って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊も出ていくほどであった」は、パウロの働きもペテロの

説いていたイエス聖霊によるもので、このことによってパウロ使徒職が確証されているというのでしょ

う。

・さて、今日の使徒言行録の箇所には、<各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取り

つかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、

お前たちに命じる」と言う者があった」(13節)と言われています。つまり、パウロを模倣するユダヤ人の

祈祷師たちがいたというのです。「ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをして

いた」(14節)と言われています。このスケワという人も、その息子たちが祈祷師だったということも、エ

フェソの町でもよく知られていたようです。ところが、面白いことに、この七人の祈祷師たちに、悪霊は言

い返し、<「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者

だ。」>と言って、彼らに<飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけ

られて、その家から逃げ出した>(15,16節)。というのです。悪霊と言えども、偽祈祷師の権威は認めず、

それに逆らったということでしょう。そして、<このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシャ人すべてに

知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった>(17節)という

のです。偽祈祷師の存在によって、却って主イエスの名による癒しや悪霊追放の権威が人々に認められて、

主イエスの名が大いにあがめられるようになった。つまり主イエスの名が多くの人々に知られるようになっ

たというのです。

・そして、<信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた

多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にも

なった>(18,19節)というのです。当時銀貨一枚は労働者一日分の賃金に換算されていたと言われますので、

銀貨五万枚は、一人の労働者の五万日(つまり約137年)分の日当に相当していることになります。おそらく

ここには、多少の誇張も加わっているかも知れませんが、それにしても、魔術に対するパウロの対決が、い

かに絶大なる成果を収めたか、ただ驚嘆するほかはありません。しかもパウロ自身の行動には何一つ言及さ

れておらず、すべては主イエスご自身の力の現れとして、この成果が収められたことを、ルカは語ろうとし

ているのです(高橋三郎)。

・そして最後に、「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」(20節)と

述べることによって、エフェソにおけるパウロの伝道活動を、ルカは事実上締めくくっているのです。

・ところで、このようなエフェソにおけるパウロの宣教による占い師や祈祷師、魔術師からの人々の解放を、

わたしたちはどのように受け止めることができるのでしょうか。このように、使徒言行録が描くエフェソのよ

うな前近代的な、神話的・呪術的な世界とは違って、現代社会は科学的に合理的に問題をとらえることができ

るので、これらのことは、私たちには関係ないと言い切ることができるでしょうか。

・かつて私の母親がからだの末端の筋肉から萎縮して心臓にまで至る筋萎縮症という病気に冒されて、当時治

療の手立てがほとんどなく、家で寝ていたときに、友人、知人、また親戚の人からいろいろな宗教や民間信仰

それこそ祈祷師などを紹介されていたようです。母親はその年にしては教育を受けて知的な面も持っていまし

たので、その善意には感謝していたと思いますが、ほとんどそのような人からの勧めによって、信心や祈祷師

に頼ることはなかったと思います。

・しかし、結婚や恋愛のことで、仕事や病気のことで、様々な人間関係の悩みのことで、或は自分の容姿や生

い立ちのことで悩み、占い師や祈祷師に頼っている人は、今でも案外多いようですし、ラジオの電話相談も、

その一つではないかと思います。祈祷師をインターネットのウキペディアで見ましたら、その中にこう言われ

ていました。「祈祷は具体的な願いを信仰の力によって祈り、具現化しようとすることであり、それらを行え

ば祈祷師といえる。そういった意味では、キリスト教をはじめ様々な宗教で祈祷師と同様な行いをするものは

多いといえる」と。私たちの祈りも、ある意味で祈祷師と同じではないかというのです。

・私たちの祈りは、私たちの願望の実現を祈り求めるというよりも、イエスゲッセマネの祈りに示されて

いますように、「私の思いではなく、あなたの御心がなりますように」というものですので、他者による執

り成しの祈りも、私たち自身の祈りも、祈祷師の祈りとは違うように思います。祈りによって見えない神と

対話することによって、自分の進むべき道を私たち自身が選び取ることができるようにというのが私たちの

祈りですので、私たちにとって祈りは、神との対話によって私たちが何物かの束縛支配によってではなく、

神の前に自分の足で立って生きていくことができるようにと、私たちに与えられた神の恵みではないでしょ

うか。そういう意味で、私たちの祈りも祈祷師の祈りと同じではないかと言われても、それに同意すること

はできないところがあります。

・さて、イエスの福音宣教、主の言葉による祈祷師、魔術師からの解放には、私たち人間がもつ本来的な弱

さを、強さを求めることによってその弱さを強さに変えようとする誘惑からの解放でもあるのではないでしょ

うか。パウロは、この使徒言行録では、目覚ましい奇跡を行う神によって強くされた者として描かれています。

けれどもコリントの信徒への手紙二、12章によれば、彼は肉体に一つのとげを与えられていたと言われていま

す(7節)。そしてパウロは、これを除いてくださるようにと三度主に祈ったけれども、この願いは実現せず、

むしろ逆に、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」

(12:9)という答えがかえってきたというのです。そしてパウロは、「キリストの力がわたしに宿るように、

むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。・・・わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(12:9b~10)

と告白しているのであります。

・弱さを強さに変えよとする誘惑から自由になって、私たちはパウロと共に、「神を愛する者たち、つまり、

御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知ってい

ます。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似ものにしようとあらかじめ定められました。そ

れは御子が多くの兄弟の中で長子となるためなのです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し

出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」(ロマ8:28-30)ということを

信じたいと思います。「神の国は義と平和と喜びである」(ロマ14:17)という信仰によって、イエスを長子

とする兄弟姉妹の一員として、私たちは神の支配としての神の国の実現のために働く者として、命与えられて

神に召されているのではないでしょうか。神によって弱い時にこそ強いという不思議な真実に気づかされた

者として、弱さを何ものかの力によって強さに変えようとする誘惑から解放されて、最も弱く小さな者こそ

大切にされる神の支配の下にある私たちの交わりを、私たちは、その一員として生きることができるのでは

ないでしょうか。

・私たちは3・11の東日本大震災で東電福島第一原子力発電所事故を経験して、「原発安全神話」信じて、

強さを得たかに思ってしまった私たちのあり様を厳しく問われました。豊かさという強さへの幻想によって、

どんでもない事故を引き起こしてしまいました。それは、祈祷師や占い師、魔術師に頼って強さを得ようと

することと、根本においては同じことではないでしょうか。次回使徒言行録19章23節以下に記されています

エフェソのアルテミス神殿についての記事で、そのことに触れたいと思います。

・「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」

(競灰2:19)。このパウロの言葉を味わい吟味して、自分自身の告白として言い表すことができれば幸い

です。