使徒言行録(72)使徒言行録19:21-27
・エフェソにおけるパウロの伝道が一段落着いたころに、パウロは新たな幻を与えられたようです。
・パウロは約2年半エフェソに留まって伝道活動を続けたので、エフェソを中心都市とするアジア州全体に福
音が宣べ伝えられて、「アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシャ人であれ、だれもが主の言葉を聞くこ
とになった」(19:10)と、使徒言行録の著者ルカは記しています。そしてパウロの働きは、イエスと同じよ
うに病人の癒しや悪霊追放というような奇跡においても目覚ましく、祈祷師や魔術師から人々を解放し、
「このようにして、主の言葉がますます勢いよく広まり、力を増していった」(19:20)と言うのです。
・先ほど読んでいただきました使徒言行録19章21節には、エフェソにおける以上のようなパウロの活動
を受けて、<このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こう
と決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った>と記されています。この
ところを田川訳で読み直してみたいと思います。<これらのことが満ちた時、パウロは自分の霊の中で、マ
ケドニアとアカヤを通ってエルサレムに行こうと決めた。彼は「そこに行った後、自分はローマを見なけれ
ばならぬ」と言っていたのである>。この「・・・なければならぬ」と訳された原語は、神の御心として示
された必然性を示すデイという動詞で、「パウロは自分の霊の中で、・・・エルサレムに行こうと決めた」
という「御霊に感じてこの決心をした」という言い回しと共に、パウロのエルサレム行きが神の計画に基づ
いたものであるということを示しています。
・22節に、「そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、
彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた」とルカは記しています。この二人を先にマケドニア州に送り
したというのは、パウロが行く前にエルサレムへの献金を諸教会が準備しておくようにというパウロの伝言
を伝えるためだったのではないかと思われます。
・このエルサレム行きによってパウロはユダヤ人からの迫害を受け、その迫害からパウロを守ろうとしてロ
ーマの官憲はパウロを捕らえて獄に入れます。そこでパウロは、生まれながら持っていたローマ市民権に基
づいてローマ皇帝に上訴し、ローマに連れていかれることになるわけです。
・おそらくパウロは自分がエルサレムに行けば、ユダヤ人がだまってはいないということを予測できたのでは
ないかと思います。その危険性を十分認識した上で、敢えて非ユダヤ人教会からの献金を持ってエルサレムに
行くことを、聖霊の導きとしてパウロが受けとめてたのはなぜでしょうか。バークレーは、「パウロは二つの
理由から、この計画を強調した」と言って、このように言っています。「第一は、最も具体的な方法で教会の
一致を強めたかったからである」と。「パウロは、教会がキリストの体に属するものであり、体の一部が痛
みを覚えるなら、全体が助け合わねばならないことを彼らに知って欲しかった。いいかえれば、教会を単な
る各個の集団とする考えから抜け出して、一つなる全世界の教会の一部であるという幻を与えたかったので
ある」というのです。「第二に、具体的なキリスト教の愛を教えたかったからである」と。おそらく教会の
人はエルサレムの窮状を聞いて心を痛めたであろう。パウロは、心を痛めるだけでは十分でない。そのよう
な悲しみや同情は行動に移さねばならないことを教えたかった」と言うのです。そしてバークレーは、「こ
の二つの教訓は、当時も今も、全く同様に貴重である」と結んでいます。
・さて、このようなパウロの新たな幻について記した後に、使徒言行録の著者ルカは、エフェソで起こった
騒動について記しています。事の起こりは、デメトリオという銀細工人が、同じ仕事に携わる人々につぎの
ような演説をしたことにありました。<諸君、御承知のように、この仕事のお蔭で、我々はもうけているの
だが、諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは「手で造ったものは神ではない」と言って、エフェソば
かりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事
の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミス神殿もないがしろにされ、ア
ジア州全体が、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう」>(19:25-27)。
・この演説によりますと、アルテミス神殿の模型を売る銀細工人の仕事が、パウロの宣教によって、経済的
損失という打撃を受けているというのです。それだけではなく、「偉大な女神アルテミス神殿もないがしろ
にされて、この女神の御威光さえもうしなわれてしまうだろう」と、エフェソの住民の宗教感情に訴えてい
るのであります。このエフェソの騒動全体を読んでみますと、騒動の中心点は後者にあったと思われます。
・「アルテミスというのは、ギリシャ神話に出てくる女神で、処女の守護および出産と肥沃をつかさどると
されており、優雅な美人として描かれているが、エフェソのアルテミスはこれと異なり、小アジア的地母神
であって、その旨には肥沃豊穣を象徴する十八の乳房がついている、グロテスクな姿であった。これを祀る
エフェソの神殿は、世界の七不思議の一つに数えられる壮麗な建物で、その間口は43メートル、奥行きは103
メートルにも及び、合計百本の大理石の柱で屋根が支えられていたという。この神殿の模型をさまざまな素
材で造ることが、大きな収入源となったのは、当然の成り行きであった。しかし、肥沃豊穣をつかさどる女
神の祭祀が神殿売春を伴ったことも、同じく必然の成り行きであった。そして使徒言行録の叙述では、表面
に立ち現れてはいないけれども、この淫蕩な宗教性に対して、パウロの宣教がきびしい批判の矢を放ったこ
とが、十分推測できるのである。いずれにせよ、真の神は唯一であり、手で造られたものでは神ではないと
いうパウロの宣教が、彼らの自負心をいたく傷つけたであろうことは、疑問の余地がない」(高橋三郎)。こ
のことがエフェソでの大きな騒乱にまで発展したと思われます。
・私はこのエフェソの騒乱の出来事を読みながら、現在の原子力安全神話によって起こっていることも全く
同じではないかと思えてなりませんでした。アルテミス神殿への肥沃豊穣への拝跪は、原子力への安全神話
を信じて疑わなかった人々の原子力信仰に比せられるように思われるのです。原子力安全神話も、その根底
には肥沃豊穣への信仰があるのではないでしょうか。まだ完全に技術としての完成をみないままに、原子力
発電所を次々に設立することができたのは、命よりも豊かさを優先してきたからではないでしょうか。この
肥沃豊穣への信仰は、私たちすべての者の中にあり、見える形で、また見えない形で、私たちを支配してい
るように思われます。経済が発展し更に豊かになることを目標に掲げて、いくらかその兆しが現れたりする
と、その政権の支持率が高くなります。格差をなくし、大企業の利益を、中小企業や働く者に還元し、公平
な社会を実現するために、現在の社会のシステムを根本的に変革し、富める者も貧しい者もいない、みな平
等な社会をという政党が存在したとしても、多くの人の支持を得ることはほとんど不可能に近いのが、現代
の私たちの日本の社会ではないでしょうか。まして「手で」、すなわち人間が「造ったものなど神ではない」
というパウロの宣教のように、神のみを神とし、神でないものを神でないものとして、そのような人間の手
で造ったものを崇め、仕え、礼拝するようなことはしないという人は、どこにいるでしょうか。イエスのよ
うに、神でないものの支配から自由で、神に愛された子どもとして、自分を愛するように他者を大切にし、
他者を心から愛する人は、どこにいるのでしょうか。むしろどこにもいないと、はっきりと認めなければな
らないのではないでしょうか。
・パウロはローマの信徒への手紙3章で、「義人はいない、ひとりもいない。/悟りのある人はいない。/
神を求める人はいない。/すべての人は迷い出て、/ことごとく無益なものになっている。/善を行う者は
いない。/ひとりもいない」(3:10-12、口語訳)と語っています。私たちは、東京電力福島第一原発事故
によって、いわば神によってすべての人間が裁かれている、そういう現実にぶつかっているのではないで
しょうか。そうであるがゆえに、私たちはイエスを十字架につけた人々のように、今もイエスをして「わが
神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という十字架上で叫ばせているのではないでし
ょうか。
・そのような私たち自身に気づかされることによって、パウロが「手で造ったものはかみではない」と言っ
たことの深い意味をつかむことができるのではないでしょうか。現代のアルテミス神殿を相対化して、神の
前に人が人として互いに愛し合って生きていく、神を神として、人間が人間として生きていいく道に、すべ
ての人と共に歩むことが許されているのではないででしょうか。