なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(499)復刻版

 もk層と祈りの夕べ通信(499)復刻版を掲載します。2009年4月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(499[-28]2009・4・12発行)復刻版


 今受難週です。受難のイエスについて、イエスの十字架について思い巡らしています。去る日曜日は棕

櫚の日でイエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城したと言われています。その日から金曜日に十字架

につけられるまでの数日の間、イエスには思わぬ出来事の連続であったことでしょう。イスカリオテのユ

ダの裏切り、ペトロのイエス否認、弟子たちの逃亡、大祭司に遣わされた下役によるイエス逮捕、捕縛、

大祭司の庭での審問、ピラトへの引渡し、裁判、十字架刑というように。イエスの中には、どうしてなの

か、なぜ自分はこの運命を引き受けなければならないのかという問いがあったことでしょう。「わが神、

わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という十字架上でのイエスの絶叫は、正に問いそ

のものであり、イエスの祈りでもあったのではないかと思うのです。もし神を信じていなければ、神に叫

ぶことも無かったのではなないでしょうか。この絶叫によって、イエスは神と体当たりしているように私

には思われるのです。さて今日98歳になる方をホームにお訪ねしてきました。前回2月に訪ねた時と比べ

ますと、随分衰えているように見受けられました。最初「北村先生?」と言われたその反応が鈍くなって

いるように感じられました。しかし、話しているうちに元気になりました。私がいるときに訪ねてこられ

たお孫さんのお話でも、このところ衰えてきているようで心配していました。この方は若い時に息子を事

故で亡くしました。大分前にお元気だった頃フェリスの同窓会長をしておられた時に、フエリスの院長が

私の神学校の学長をしておられた桑田秀延先生でした。その頃桑田先生は当紅葉坂教会の礼拝に出席して

いました。息子を事故で亡くしたその方は桑田先生に「神さまは、どうして私にこのような試練をお与え

になるのでしょうか」と尋ねたそうです。その時桑田先生は「わかりません。神さまにぶつかりなさい」

とだけ言われたそうです。その方にとってこの桑田先生のひと言は大変大きかったようです。その方のベ

ットの前にあるテーブルの上には桑田先生の著者3冊が置いてあります。何度も何度も読み返したことが

、3冊の本に引かれた線や書き込みによって分かります。その一冊の表紙を開いたところに上記の桑田先生

の言葉が書いてあります。神信仰(信頼)とは、解決を神から与えられるからというよりも、私たちが神

とぶつかり合うことではないでしょうか。十字架上のイエスも事故で息子を亡くしたこの方も真正面から

神にぶつかっていったのではないでしょうか。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。十字架にかかって死んだイエスとイエスを裏

切ったイスカリオテのユダは、二人をセットで考えることが出来るのではないかと思う。マルクスとエン

ゲルスのような関係である。ユダというパートナーがあってイエスがあるのではないか。ユダは裏切り者

としてダーティーな面を引き受けている。事実としてあったかどうかは分からないが、敢えてユダが闇の

部分を引き受けたのではないか。イエスの十字架と復活は、今までのものが終わり、新しいものの端緒と

なったということではないか。そのためには誰かが犠牲を引き受けなければならない。それがイスカリオ

テのユダではなかったのではないか。もうひとつ別のことだが、上からの目線で物を言う人、私は知って

いる、分かっているから聞きなさいという態度の人が多い。そういう態度で何か言われると、内容と関わ

りなく反発したくなる。自分に対して支配的なものを感じるからである。自分はこう思うが、あなたはど

う思うかという問いかけによってはじめて対等になるのではないか。
           

           「思いやり深い権威」      4月12日


 大きな権威をもった人を、手の届かない遥か遠くにいる高官のように私たちは考えます。しかし霊的権

威は思いやり深さから来ます。それは、権威に「服する」人々との深い内なる連帯から生まれます。霊的

権威を持つ人は、私たちと全く同じような人、つまり私たちの喜びや苦しみ、希望や願いごとを深く理解

し、私たちと一緒に歩もうとし、歩むことが出来る人です。そのような人こそ、私たちは喜んで権威を授

け、望んで従います。

 隠された賜物を力づけ、励まし呼びさまし、偉大なことを可能にするのは思いやりの深い権威です。真

の霊的権威とは、逆三角形の下端にあって、指導者が指導することになるすべての人を支え、光の中へと

導いてゆきます。


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)