黙想と祈りの夕べ通信(498)復刻版を掲載します。2009年4月のものです。
下記通信の内容は、2011年2月号の「福音と世界」の聖書随想に、この通信から転載しているよ
うに思います。
黙想と祈りの夕べ通信(498[-27]2009・4・5発行)復刻版
教会の歩みも2009年度に入りました。
最近発表されたこの1年間の自死者(自殺者)は32000人強ということです。30000人を越えたのが1998年と
いうことですから、この10年間に30数万人の人が自死していることになります。その一人一人の死がどの
ようにしてそうならざるを得なかったのか、具体的には分かりませんが、想像する限り、病気や経済問題、
仕事上のトラブルやストレス、家庭問題や人間関係、社会的引きこもりなどが原因となっているのではな
いでしょうか。そしてその多くの方々は、その生きづらさを自分を責める方向に向けてしまった結果、自
死を選ばざるを得なくなっていったのではないでしょうか。雨宮処凛が小森陽一と対談している本の中で、
雨宮処凛がかつて浅間山荘事件を起こした連合赤軍について書いたことを紹介しています。そのところを
引用してみますと、以下になります。
「もしあの事件によって、政治や権力に抗議する言葉が奪われていったというか、権力に対して怒るとい
うことが「若者に禁止」されていったのであれば、その後、社会的背景をもった問題に生きづらさを感じ
るようになる人々は、『自分がダメだからこんなに生きづらいんだ』と、自分を責める回路しかなく、権
力に対して怒れないままに、リストカットなどの自傷に走ったり、あるいは自ら死を選んだりしてしまう、
そういう方向にしむけられてしまっているわけです。そんな犠牲者は、もう膨大な数に上るので、実は
『連赤』が殺したのは、あの事件で死んだ16人どころじゃないんじゃないか、みたいな内容の文章だった
んですが」。
雨宮処凛もリストカットをくりかえしていたそうですが、ある時から自分を責める回路から社会の問題と
して社会を問う方向に目が開かれることによって、生きづらさは変わらなくでも、楽に生きられるように
なったという趣旨のことを書いています。怒りをどこに向けるかということではないでしょうか。社会に
向けるべき怒りを、自分の方に向けざるを得ないとすれば、自分を傷つけたり、自分の命を自ら奪うよう
にならざるを得ないのかも知れません。
私は最近貧困や格差の問題について書かれた本を数冊読んで、現在国家と企業が一体となって棄民政策を
進めているということを知りました。私の子供たちを見ていて、雇用の問題の厳しさは感じていましたが、
社会の構造的な問題としてははっきり認識できていませんでした。1995年頃から日本の社会ははっきりと
企業による労働者の雇用形態が変わったのです。正規雇用は一握りの幹部候補生とし、その他は派遣など
の非正規雇用にし、昇給無し、退職金も年金も無しにすることによって、企業は人件費を減らしてきたの
です。現在非正規雇用の拡大が、年収100万円台のように収入が極端に低く、将来ずっとそれが変わる見通
しをもてない人々(ワーキングプア)を生み出してきました。現在労働者の三分の一、若い労働者なら半数
が非正規雇用になっていると言われます。こういう状況の中で、物質的・精神的に追い詰められ精神を病ん
だり、自死(自殺)する人が増え、1998年から年間3万人を越え続けるという異常事態になっているわけです。
このような現在の日本は、憲法9条と共に憲法25条で定められた生存権、人間が人間らしく生きていく権利
がふみにじられているのではないでしょうか。こういう深刻な問題に私たちはどのように応えていったら
よいのでしょうか。このような問題も視野に置きながら、2009年度の宣教活動に取り組んでいきたいと思い
ます。
「神に深く根ざす」 4月5日
高く育つ木には、深い根があります。深い根を持たずにかなりの高さに到るのは危険です。聖フランシス
コやガンジー、マーティン・ルーサー・キング牧師といったこの世界の偉大な指導者たちはみな、世間の悪
評に囲まれながら影響と力を謙虚な態度で生きることの出来た人々でした。それは彼らが深く霊的な根を地
に下ろしていたからです。
深い根を持っていないと、他の人々に私たちがどういう人間であるかを簡単に決めさせてしまいます。け
れども、私たちが世間の評判の良さにしがみついていると、自分が本当はどんな人間であるかという感覚を
失ってしまうかもしれません。他の人が私をどう思っているかということに気を取られているなら、いかに
私たちが表面的であるかということが分かります。そして私たちの足の下には、私たちがしっかりと立てる
地面がほとんどありません。私たちは、追従と賞賛で生きのびなくてはならなくなります。神の愛に深く根
ざした人は、人からの賞賛に執着することなく、その賞賛を享受出来るでしょう。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)