なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(549)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(549)復刻版を掲載します。2010年4月のものです。


         黙想と祈りの夕べ通信(549)[Ⅺ-27]2010・4・4発行)復刻版


 日曜日の夕方突然名古屋時代の方から電話がありました。桜木町に来ているので、会えないかということ

なので、来てもらい2時間半ほど話をしました。彼女は数年に一度くらいの割合で、こちらに来る用事があり

時間に余裕があると、私を訪ねてきます。今回彼女がこちらにきた用事は、祖母の今後の世話について姪の

一人と相談するためとのことでした。彼女の祖母は94歳になり、今はホームで生活できているが、そろそろ

世話する人が必要になっていて、祖母の子どもたちは自分の母を含めてその世話が無理なので、祖母からす

ると孫たちの誰かがその役割を担わなければならないということになっているそうです。彼女も夫の親の世

話を期待されているということです。そのような話から、彼女は自分も夫と二人なので、年を重ねていって、

健康であれば、自分の両親や祖父母のような立場になると思うが、そうしてまで生きていくことにいささか

疑問を感じているようでした。昨年3月に彼女より少し若い世代の名古屋の教会で交わりをもっていた女性が、

第3子の出産数ケ月後に自死しました。その女性の自死にも彼女は、自分の本心としてはその女性に自死を引

き止め生き続けて欲しかったと言えるものを今の自分の中には持ち合わせていないと、正直な自分の気持ち

を話してくれました。私は彼女との話し合いから、ある思想家が言っていたことを思い起こしました。それは、

人間は生まれてきたときに、自分から選んで生まれてきたわけではないが、生まれてきた以上、その与えられ

た命を生きる責任が生じるのではないかということです。それを「存在の倫理」というような言い方で言って

いたと思います。確かにこの社会はそう簡単に与えられた命を生きる自由を一人一人に保証しません。その命

を奪い取ってしまう力がいろいろな形で働いていることも事実です。そうでなければここ十数年日本の社会で

毎年3万人を越える自殺者がでるはずがありません。自分の能力や健康の問題、家族や学校の問題、不況をは

じめさまざまな社会の問題、人間関係の問題など厳しい状況に人間が置かれると、その生きにくさに耐えられ

なくなってしまうこともあるでしょう。ですから、自死していく人を簡単に非難することはできません。自死

と言っても、自ら選んで死ぬ人はいてもわずかで、殆どの人は自死と言いながら強いられた死といってよいで

しょう。自死した人を責めることはできませんが、私たちすべての人に与えられた命を最後まで大切に生きる

課題と責任が私たち一人一人にあることも事実です。その課題と責任をどう果たして行くかは、一人一人に問

われていることです。私たちは他者の生死について私たちがとやかく言うことは差し控えるべきだと思います。

彼女と話した後、そんなことを考えながら、では果たして自分はどうなのかと、考えさせられました。私は今

そんなに行動的に生きているわけでもありませんし、そんなに安穏とした生活をしているわけでもありません。

かといって苦しみながら生きているかと言えば、個人的には生活に困っているとか、健康を損なっているとか、

どうにもならない人間関係を抱えているとか・・・、全くないとは言えませんが、死にたいと思うほどではあり

ません。日々他者やこの世の現実からの問いかけにどう応えていったらよいのかを、祈りつつ自分なりに考え

実践しながら無我夢中で生きているというのが、正直な現在の自分の生活です。そういう自分の生活の中に、

この命は自分の所有物とは違い、預かっている宝物というような感覚があります。自分が選んでではなく、選

らばれて受け身でこの世に生まれたこの与えられた自分の命を抱えて、最後まで歩み通したいと願います。


           「あえて人に頼る」        4月4日


 誰かが腕時計をくれても、それを全然身に付けないなら、その腕時計は本当に受け取られたことになりませ

ん。誰かがアイデアをくれてもそれに応えないなら、そのアイデアは本当に受け取られたことにはなりません。

誰かが友人を紹介してくれてもその友人を無視するなら、その友人はちゃんと受け入れられたとは思わないで

しょう。

 受けることは一つのアートといえましょう。受けることは、他の人々に私たちの人生の一部となってもらう

ことです。受けるということは、あえて人に頼りながら生きることです。それは「もしあなたがいなかったら、

今の私はなかっただろう」と言える内なる自由を必要とします。心から受け取ることは、謙遜と愛の意思表示

だといえましょう。贈り物が気持ちよく受け取られなかったために、いかに多くの人の心が傷つき痛んだこと

でしょう。良き貰い手となりましょう。


                     (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)