なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(29)

   「内なる光」マタイ6:19-24    2019年3月31日(日)船越教会礼拝説教


目取真俊(めどるましゅん)さんという文学者が『沖縄「戦後」ゼロ年』という本を書いています。目

取真さんは、現在は、辺野古で新基地建設反対の海上抗議行動に参加しています。その様子を、目取真さ

んは、ご自身のブログ「海鳴りの島から」に殆ど毎日書いています。目取真俊さんの『沖縄「戦後」ゼロ

年』を読まれた方もあると思います。この本を読んで、私は大変衝撃を受けました。もう14,5年前にな

ります。2005年は、敗戦の年1945年から数えますとちょうど60年でした。ですからヤマトでは、戦後50

年、70年もそうでしたが、戦後60年ということで、その節目の年にかつての戦争について、そして平和に

ついて考える機会が多かったのです。


・しかし、沖縄の人である目取真俊さんは、沖縄では戦後はなく、今も戦時下と同じ状態のままだから、

ヤマトでは戦後60年と言われた年に『沖縄「戦後」セロ年』という本を書いたのです。


・「沖縄戦から60年。戦後日本の『平和』は、戦争では「本土」の「捨て石」に、その後は米軍基地の

「要石」にされた沖縄の犠牲があってのもの。この沖縄差別の現実を変えない限り、沖縄の「戦後」は永

遠に「セロ」のままだ」と言うのです。


・この目取真俊さんの『沖縄「戦後」ゼロ年』という本の書評を沖縄の新聞で知念ウシさんという方が書

いています。以前に沖縄の山里勝一牧師からそのコピーをいただきました。山里先生は、知念ウシさんが

書いていることが沖縄の人たちの心をよく言い表しているからと言って、私にそのコピーをくださいまし

た。その中で知念ウシさんは、「もう二度と自分を殺してはいけない。それは他人を殺すことにもなるの

だ。自分を生きるのだ」と書いています。


・つまり、沖縄が日本の犠牲になることは、沖縄の人が自分を殺すことに等しいと言うのです。だから、

「もう二度と自分を殺してはならない」と。「自分を殺すこと」は「他人を殺すことにもなるのだ」と。


・知念ウシさんが、「自分を殺すことは他人を殺すことにもなるのだ」と言う時に、二つのことが考えら

れているのではないでしょうか。一つは、米軍基地の「要石」にされている沖縄から米軍が、湾岸戦争

に、イラク戦争に、アフガン戦争に参加して、その地の多くの民衆を殺しているのを、自分を殺してそれ

を黙認しているのは、沖縄がその戦争に加担し、他人を殺していることになるということ。もう一つは、

日本の犠牲にされている沖縄人が、自分を殺すことは、他人であるヤマトの私たちを殺していることにも

なるということです。知念ウシさんがそこまで考えているかどうかは分かりませんが、「自分を殺すこと

は、他人を殺すことになる」という言葉は、沖縄とヤマトの関係からしますと、そのようにも言えると思

います。


・「自分を生きる」ことによって、他人を殺さず、他人をも生かす。今日の聖書の箇所は、わたしたちが

そのような「自分を生きる」ということと深く関わっているイエスの言葉ではないでしょうか。


・マタイによる福音書6章19-24節には、新共同訳聖書の表題をみますと、三つ表題があります。19-21節

は「天に富を積みなさい」、22-23節は「体のともし火は目」、24節は「神と富」となっています。ここ

には三つのイエスの言葉が並んでいます。ルカではそれぞれ12章(33節)、11章(34-36節)、16章(13

節)というように違った文脈に出てきます。この三つのイエスの言葉は、みんな「あなたがた」ないしは

「あなたは」という語りかけの言葉です。


・「あなたがたは地上に富を積んではならない。・・・・・富は天に積みなさい」。


・「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗

い。あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。


・「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を

軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。


・このイエスの三つの言葉はすべて、わたしたち一人一人の自分自身の在り様に関わる言葉です。この自

分が何者であり、この自分がどう生きるかということを問うイエスの言葉です。他の人のことでも社会の

ことでもありません。わたしたち一人ひとりの自分自身についての言葉です。けれども、この自分をどの

ように思い、どう生きるかによって、他の人や社会との関係がどのようなものになるのかが方向付けられ

ていくのです。自分を殺しして、奴隷のように生きることは、他の人や社会の言いなりになって生きるこ

ともあります。


・今自分をしっかりともてなくなっている子供たちが多くなっていると言われています。子どもたちだけ

でなく、私たち大人も同じかもしれません。自分をしっかりと持って生きるには、自分をかけがえのない

者と思い、自分を大切にする尊厳を持っていなければなりません。尊厳は、自己愛、ナルシズムとは違い

ます。


・自分をしっかりと持つことのできる尊厳が欠けていますと、他人や社会の圧力を跳ね返す力が弱く、圧

力の犠牲になって自分を殺さざるを得ません。


・ちょうど草木で根が大地に張れないでいるものが、強い風で倒れたり、雨がしばらく降らなかったりす

ると、枯れてしまうのと同じです。根がしっかりと大地に張ることができている草木は簡単には倒れも枯

れもしません。私たちを草木に譬えれば、自分をしっかりと持つということは、根を大地に張るというこ

とです。


・この草木の根が大地に張ることを想像していただければ分かりますように、草木だけではどうすること

もできないことです。草木を育て成長させるその草木に必要な成長の力が与えられる大地と日差しや温度

のような環境が整っていなければなりません。それは草木そのものではないのです。どこに自分の根を張

るかということです。


・天に宝を積みなさい。内なる光を灯し続けなさい。神に仕えなさい。というイエスの言葉は、創世記の

神による人間創造の言葉が示しますように、私たち全ては神によってこの命を与えられて「生きる者」と

なったのです。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)と形づくり、その鼻に命の息を吹きいれ

られた。人はこうしてく生きる者となった」とある通りです。


・神の命を受けて生きる者となっている。それが私たち人間だと、聖書は語っているのです。ですから、

「神の息(神の霊)によって導かれる者は、みな神の子」(ロマ8:14)

なのですと、パウロも言っています。


・この私たちを人として生かす神の御心を自分の心として、内なる光を輝かして生きる。そして天という

象徴語で示される神に宝を積む。富(マモン)という神に心を売って富の蓄積だけに奴隷のように仕える

のではなく、神の子どもとして神と人に仕える。


・天に宝を積みなさい。内なる光を灯し続けなさい。神に仕えなさい。この三つのイエスの言葉は、自分

を見失い、他人や社会の犠牲になって自分を殺して奴隷のように生きるのではなく、神に命を与えられた

者として、そのような自分をしっかりと持ち続けなさいという言葉でもあります。


・それは、知念ウシさんが「自分を生きる」と言っていることに繋がるのではないでしょうか。神に与え

られた人間としての尊厳を大切に生きる時、自分を殺して他人を殺す、そのような自分を殺してではな

く、自分が生きることによって他人も生きる、そのような自分を生きるのだと、知念ウシさんは言ってい

るのではないでしょうか。


・私は自分自身を振り返るときに、「自分を生きている」だろうかと思わざるを得ません。確かに私なり

に「自分を生きている」つもりですが、その「自分」は、神に命与えられたひとりの人としての尊厳を

持った自分だろうか、と思うのです。


・私を草木に譬えれば、私の根はどこに張っているのだろうかと思うのです。ある一人のマイノリティー

の牧師が、社会の不条理への怒りを露わにしているとき、私には同じような怒りを感じられないところが

ありました。この社会に取り込まれて、安穏と生きている自分がいるように思えたのです。私の根は、神

の命にではなく、この社会の秩序の中に張られているのではないか。そしていつの間にか、自分を殺して

他人も殺す生き方をしてしまっているのではないかと思えてなりませんでした。


・私たちは、自分や家族の生活が成り立つために、この社会の中で働き給与を得て生活しています。それ

は人間として、ある意味で当然なことでもあります。けれども、「生活すること」と「自分を生きるこ

と」は、必ずしも一つではありません。生活するために自分をある程度捨てなければならないこともあり

ます。逆に自分を生きようとすれば、生活をある程度犠牲にしなければならない場合もあります。そうい

う矛盾を抱えながら私たちは生きているのです。


・私たちは「われらの日毎の糧を与えたまえ」と祈ります。そのために労します。しかし、それは「み名

があがめられがますように」「み国を来たらせたまえ」「み心の天になるごと、地にもなさせたまえ」と

いう祈りに続く祈願であることを忘れたはなりません。


・私たちの生活のために犠牲となっている他者が、自分を生きるが故の問いかけには、耳を傾けなければ

なりません。それは、その人を通して、自分を殺して他者も殺す生き方から、私たちを、自分を生き他者

も生かす生き方へと招く神の声ではないでしょうか。


・天に宝を積みなさい。内なる光を灯し続けなさい。神に仕えなさい。とのイエスの言葉も、あなたがた

は、神に命与えれた者として、その尊厳を大切にして、「自分を生きなさい」というイエスの招きではな

いでしょうか。


・このイエスの招きの言葉と共に、「「もう二度と自分を殺してはいけない。それは他人を殺すことにも

なるのだ。自分を生きるのだ」と知念ウシさんの言葉を噛みしめたいと思います。