なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ペンテコステ礼拝説教(5月24日)

     「求める者に与える神」ルマ11:1-13、ペンテコステ礼拝
                      
                          2015年5月24日(日)船越教会礼拝

・今日はペンテコステの礼拝です。使徒言行録2章では、イエスの十字架死、埋葬、そして甦った復活の主

エスとの出会いを経験した弟子たちが、50日後の五旬節の時、一同が集まっていると、「突然、激しい風

が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(2:2)と言われています。

・ここに表現されている光景は、最近私たちが経験することのある、突然激しい雨と雷鳴が響き渡る「ゲリ

ラ暴雨」に襲われたときのようです。人間の営みが何ものによっても邪魔されずに、あたかも日常性が全く

変わらないものとして受け止めて生活している私たちなのですが、「ゲリラ豪雨」に出会うと、そのような

私たちの日常性を支配している空気を突き破るような全く別の力が、人間を支配する自然が、何ものかが存

在することに気づかされるのであります。ペンテコステの出来事とは、そのような私たちの日常性を突き破

る力として、神の霊である聖霊が弟子たちに降ったというのです。

・弟子たちは生前にイエスと共に経験した、さまざまな出来事に出会いました。ユダヤの国で社会的に虐げ

られて、その抑圧・差別の力に押しつぶされて、絶望の内に自らの生を呪いながらしか、生きてこれなかっ

た、そのような人々がイエスと出会い、打ちひしがれていた彼ら彼女らが自らの足で立ち上がって、誇りを

持ち、喜びと希望をもって共に歩みはじめたのです。弟子たちは、イエスと共にそのような彼ら彼女らと共

に生きる道へと招かれたに違いありません。けれども、そのようなイエスの到来によって始まった、この世

において神の国を生きる新しい群れは、イエスからすれば、既に過去となった古い人間の秩序と、それにし

がみつく権力者たち、そしてその権力者たちにぶらさがって生きている人々によって、激しい抵抗を受けま

した。権力者やその同伴者たちは、あらゆる手立てを尽くして新しい動きの主謀者と見られたイエスに攻撃

を加え、ついに十字架刑につけて、イエスを殺したのです。

・この日常性に亀裂をもたらし、人々をすべての人の命を支えてくださっている主なる神、人が人の上にも

下にもならず、すべて皆他に代えることのできない固有な賜物によって互いに分かち合い、助け合って、命

の主の恵みを分かち合って生きて行くイエスの福音が、権力と富に隷属する人々によって抹殺されたかに思

われました。

・しかし、神はイエスを死に放置しておきたまわず、イエスを甦らせ、復活の主として霊において私たちと

共にあらしめてくださったのです。聖霊は復活の主イエスの現臨です。ペンテコステはそのような出来事で

した。使徒言行録を書いたルカは、このペンテコステの出来事を、教会の誕生の出来事として福音宣教との

関わりで描きました。<そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、

一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉を話し出した>(使2:3,4)。そして

そこにいたさまざまな国の人々は、弟子たちが「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こう

とは」と言って、皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのかと互いに言った。しかし、

「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた」(2:12-13)と記され

ています。

・この使徒言行録2章のペンテコステの出来事は、イエスにおいて示された神の偉大な業を弟子たちが語り、

それをエルサレムに来ていたさまざまな国の人々が聴くという出来事として描かれています。そしてそれが

聖霊降臨の出来事であるというのです。

・ところで、先ほど読んでいただきましたルカによる福音書11章1節から13節には、前半には「祈りについ

て」、後半には「求めについて」記されています。前半の「祈りについて」の部分は、今日も先ほど祈りま

したが、礼拝ごとに祈り、また私たちが日々祈っています「主の祈り」のルカ版です。イエスの祈りに触発

されて、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネバプテスマのヨハネ)が弟子たちに教えたように、わた

したちにも祈りを教えてください」という弟子の願いに応えて、「祈るときには、こう祈りなさい」と言っ

て、イエスが弟子たちに教えた祈りです。いつも私たちが祈っています主の祈りからしますと、ここでイエ

スが弟子たちに教えた祈りは、より簡潔な祈りになっています。

・「父よ。/御名が崇められますように。/御国が来ますように。/わたしたちに必要な糧を毎日与えてく

ださい。/わたしたちの罪を赦してください。/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。

/わたしたちを誘惑に遭わせないでください」(11:2-5)。

・このイエスが弟子たちに教えた祈りには、明快に私たちが神に日々祈り求めることが何であるかが提示さ

れています。第一に、「父よ」即ち「神よ」と、私たちは神に向かって呼びかけることです。第二に、偉大

な人間や権力や富や物が崇められるのではなく、「御名が崇められること」、つまり神ご自身が崇められる

ことです。三番目は、「御国が来ますように」。すなわち「神の国の到来」への祈りです。ここまでの三つ

の祈りは、神を求める祈りです。後半の三つの祈りの第一は、「わたしたちに必要な糧を毎日与えて下さい」

「わたしたちに必要な糧を毎日与えて下さい」です。昨日寿地区センターの講演会があり、野本三吉さんの

「誇りある豊かさを求めて」という題の講演会がありました。野本さんはその中で「ベイシックインカム」

について話されていました。私たちがめざす社会は、誰でも最低限の生活保障を受けることが出来る社会で

あるとするならば、誰にでも基本的な収入(ベイシックインカム)、人間が毎日心配なく生きていける収入

が保証されなければならないということです。これは憲法第25条第一項の「すべて国民は、健康で文化的な

最低限度の生活を営む権利を有する」と定められている、すべての国民の権利が保障されることを意味して

います。生まれたばかりの赤ちゃんからお年寄りまですべての人の糧が与えられることです。「わたしたち

に必要な糧を毎日与えてください」は、そのことへの祈りです。後半の二番目は「罪を赦し合うこと」で

す。私たちは自己中心的な存在ですので、他者を傷つけ、他者の命や生活を脅かす自己中心的な生き方をし

がちなのです。この祈りはそういう私たちを互いに相手を尊重して、赦し合い、助け合って生きていける人

にしてくださいという祈りです。後半の三番目の祈りは、「誘惑に遭わせないでください」です。人間は本

来弱い存在です。弱い存在ですから支え合い、助け合って生きて行くのです。誘惑は、強さへの誘(いざな

)いです。私たちは弱いので、この強さへの誘いに陥りやすいのです。後半の祈りは、私たち人間が本来の

人間として生きて行けるようにとの祈りです。

・実はペンテコステの時の聖霊降臨による弟子たちの福音の世界宣教とは、このイエスが弟子たちに教えて

くださった祈りを祈り、この祈りの実現成就を求めて私たちが共に生きて行くことと切り離すことはできま

せん。福音宣教は決して教会の勢力拡大ではありません。

・今日のルカによる福音書の箇所の後半には、イエスが弟子たちにこう祈りなさいと教えた後に、一つの例

話を示して、しつように祈る者には必ず与えられるとイエスは語っておられるのであります。そのところに

は有名な「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。

そうすれば、開かれる」という言葉があります(11:9)。そしてこのようにイエスは語っているのです。

・<あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲

しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか>(11:11,12)と言って、最後にこのように語っているの

であります。<このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることをし

ている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。ここには、私たちがしつように、あきらめ

ずに求め続けるならば、神は私たちに聖霊を与えてくださると言われているのであります。

・私は昨日の野本三吉さんの話を聞きながら、沖縄の人々の現在を想像しました。沖縄の人々は、戦後日本

から切り捨てられ、アメリカの統治を受け入れざるを得ませんでした。1972年日本の憲法の下に復帰するつ

もりで、日本への復帰をしましたが、その後の43年間は、日本政府による基地の押しつけで、決して憲法

の復帰ではありませんでした。昨年の知事選で翁長知事が誕生しました。先日の5月17日には辺野古基地建

設反対の県民集会には3万5千人の人々が集まりました。野本さんは、今沖縄の人々は「誇りある豊かさを

求めて」、自分たちで(主権在民)、日本政府の交付金に頼ったりしてきた今までのあり方を脱皮して、

基地の無い沖縄をつくろうと本気で立ちあがっていると言うのです。17日の県民集会では、皆が「辺野古

新基地建設、NO」、「屈しない」と書いたブルーのアッピールの紙を掲げていました。戦争の論理、軍隊

の論理ではなく、民の論理、共生の論理をもって、生きること、生きつづけること、それが仕事である生

き方、これこそが「誇りある豊かさを求めて」生きることであると、野本さんは言うのです。

・今日は「求める者に与える神」という説教題をつけました。これは私たちが自分勝手に求めるものは何で

も与えてくれる神というのではありません。主の祈りに示されている私たち人間の基本的な祈願を真剣に求

めるならば、神は必ず与えてくださるということなのです。沖縄の人々が沖縄を基地の無い平和な島に取り

戻し、繋がりの中で互いに豊かに生きてゆく道を模索していることに、私は勇気を与えられています。貧困

と格差の広がる中で、「わたしたちに必要な糧を毎日与えて下さい」と真剣に祈り求めていきたいと思いま

す。求める者には必ず与えてくださる神を信じて。