「心を騒がせるな」ヨハネによる福音書14:15-27、
2016年5月15日(日)ペンテコステ礼拝説教
・今日はペンテコステの礼拝です。ペンテコステとは、50日目ということで、イエスが復活して50日目に弟
子たちに聖霊が降って、教会が誕生したと言われている日です。今日は聖書日課に従って、ヨハネによる福
書14章15~27節から私たちに対する聖書の語りかけを聞きたいと思います。
・このヨハネによる福音書の記事は、イエスの告別説教と言われる箇所の一節です。ヨハネによる福音書は、
ご存知の方も多いと思いますが、13章で「洗足の教え」と言って、イエスが自ら弟子たちの足を洗って、弟
子たちが互いに足を洗い合うように模範を示す物語が最初に出てきます。次にイスカリオテのユダに対する
裏切りの予告の記事が続きます。そしてイエスは自分が栄光を受ける時が来たことを弟子たちに告げ、新し
い掟を与えると言って、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなた方も互いに
愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知る
ようになる」(13:34,35)と、弟子たちに語ります。13章の最後には、ペテロが三度イエスを知らないと言う
だろうと、ペテロの離反を予告します。13章はこれで終わって、14章の1節で、「心を騒がせるな。神を信
じなさい。そして、わたしをも信じなさい・・・」と言って、告別の説教と言われる、弟子たちへの遺言の
ようなイエスの言葉が16章の最後まで続くのです。
・今日の箇所では、イエスの受難と十字架を前にして、弟子たちがイエスに躓き、イエスから離れ去ってし
まうということを予想して、イエスは、イエスの死後弟子たちに与えられる弟子たちの弁護者(本田訳、協
力者)である真理の霊(本田訳、真実の霊)がいつまでも弟子たちと共にいてくれるということを語ってい
るのであります。その部分を本田哲郎さんの訳で、もう一度読んでみたいと思います。わたしたち自身に語
られたイエスの言葉として聞いて見たいと思います。
・<あなたたちはわたしを大切に思うなら、わたしの掟を守るはずだ。そうしたら、わたしも父に願って、
別の『協力者』をつけていただこう。その方はいつまでも、あなたたちといっしょにいてくださる。その方
は真実の霊。世はこの霊を身に受けることはできない。この方をよく見ようとも知ろうともしないからだ。
あなたたちはこの方を知っている。あなたたちのところにとどまっており、あなたたちの内にずっといてく
ださるからだ。わたしはあなたたちを、みなしごにはしておかない。あなたたちのところに帰ってくる。今
しばらくすると、世はわたしを見ることがなくなる。しかし、あなたたちはわたしをしっかりと見つづける。
わたしは生きつづけ、あなたたちも生きるようになるからだ。その日が来たら、あなたたちは分かるだろう。
わたしが父の内におり、あなたたちがわたしの内にいて、わたしもまた、あなたたちの内にいるのだ、と。
わたしの掟をしっかり受けとめ、それをふみ行う人こそ、わたしを大切にする人なのだ。わたしを大切にす
る人は、父もその人を大切にしてくださる。わたしもその人を大切にし、その人にわたし自身を現わそう。
・・・「わたしは、あなたたちのところにいるあいだにと思って、これらのことを話してきた。父がわたし
とひとつになってつかわす『協力者』、すなわち聖霊が、あなたたちにすべてをときあかししてくださるだ
ろう。また、わたしがあなたたちに言ったことをみな、思い出させてくださるのだ。「わたしは平和をあな
たたちにさし向ける。わたしの平和を、あなたたちに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるの
ではない。心を不安にしてはならない。おびえてはならない・・・」>(14:15-21、25-27))。
・ここには、世、即ちこの世界、人間と自然が生み出すこの世、私たちの現実からは見いだすことのできな
い何ものかが語られているのであります。イエスとイエスの父(なる神)と、<父がわたし(イエス)とひと
つになってつかわす『協力者』、すなわち聖霊の存在です。キリスト教の教義において三位一体論として言
い表わされてきた神についての教えは、このイエスと父と聖霊という三つの位格において一つなる神、一つ
で三つの位格を持つ神のことです。私はこの三位一体論を神の豊かさを表わす教えとして理解していますが、
言葉の説明だけではなかなか理解できない教えであることに間違いありません。私たちは三位一体論を信じ
ているわけではありませので、教義としての三位一体論がよく分からなくても、イエスについて、イエスが
父と呼んでしばしば祈った神について、また、今日の聖書箇所のようにイエスの死後、イエスと父なる神に
よって私たちに遣わされている協力者である聖霊について信じることができれば、それで十分ではないかと
思います。
・ イエスの弟子たちは、イエスの生前、イエスに従っていましたが、本心からイエスを信じることは
できなかったと思われます。ですから、当然イエスの父なる神も信じることはできなかったのではないで
しょうか。イエスに従っていれば、自分も何か偉い者になれるに違いないというくらいの気持ちでイエスに
従っていたのかも知れません。或は、当時のユダヤ人が待望していたローマの支配からの政治的解放者とし
ての王なるメシヤを勝手にイエスに当てはめて、そのようなメシヤ・イエスに従っていたのかも知れません。
しかしイエスは彼らの期待とは裏腹に、ローマからユダヤを政治的に解放する王どころか、ローマの権力に
よって苦難を強いられ、ついには十字架に架けられて殺されてします事を知った時に、彼らの期待を裏切っ
たイエスを見捨てるようになったのかもしれません。ですから、イエスの受難と十字架が迫って来ると、イ
エスから離れて行ってしまったのでしょう。生前のイエスに従ってイエスと行動を共にした弟子たちは、本
当の所本田哲郎さんが言うように、「イエスに信頼して歩みを起こ」してはいなかったということではない
でしょうか。
・イエスは、そのような弟子たちの弱さを十分知りつつ、ヨハネによる福音書の著者は、この告別説教の中
で、受難と十字架を前にして自分の死後弟子たちに協力者である聖霊を遣わすことを約束して、弟子たちが
立ち直ってイエスの証言者として生きていくことができるように備えてくれたのだと言っているのでありま
す。
・パウロは、コリントの信徒への手紙12章3節で、<神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神に見捨て
られた」とは言わないし、また、聖霊によらなければだれも「イエスは主である」とは言えないのである>
と言っています。また、コリントの信徒への手紙二、4章18節では、<わたしたちは見えるものではなく、見
えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです>と言
っています。
・イエスの受難と十字架を前にして、イエスを見捨ててしまった弟子たちは、その時イエスは神に見捨てられ
たのだと思ったでしょうし、見えないものに目を注いでいたのではなく、弟子たちが見ていたのは、見えるも
の、つまりユダヤの権力者たちと結託してイエスを十字架に架けた総督ピラトとローマ皇帝の権力だったので
はないでしょうか。そのようなこの世の見える権力の横暴に恐れを感じて、イエスと共にずっと行動してき
たにも拘わらず、イエスを見捨てて逃げ出した弟子たちは、イエスを主と信じて歩みを起す者ではなかった
のです。見えないものを見ることのできる目を持っていなかったのです。低みに立ってこの世で悩み苦しむ
人々の友となって生きたイエスに信頼して、イエスの掟である互いに愛し合うことを大切にして歩む者は、
エスが与えて下さる平和によって、目に見えるこの世の恐れからも解放されて、見えないものに目を注ぎつ
つ、為すべきことを為して生きて行くことができるでしょう。弟子たちはイエスの十字架と復活の後で、真
理の霊(本田訳:真実の霊)である聖霊によって、そのようにイエスの掟を大切に、イエスに信頼して歩み
を起す者となって生きていったに違いありません。
・本田哲郎さんは、今日のヨハネによる福音書の箇所を、このような表題でまとめています。15節から21節
までを「低みに立つ人々は、聖霊によって、イエスが帰ってきていたことを知る」、24から26節までを「イ
エスとともに低みに立たない者は、イエスは見えない」、そして27節以下は「低みに立つ者こそ、『平和』
のにない手」であると。私たちが目で見ているこの世の現実の中に、イエスが誰と共に歩んでおられるのか
を見る目を与えられたいと思います。
・6月末に私たちが所属する神奈川教区総会があり、そこに議員提案として一つの議案を提案することにし
ています。林間つきみの教会のY牧師が提案者で、私もY牧師から相談を受けて、協力しています。その議案
の内容は、「日本基督教団は、第40回(合同後第25回)教団総会の総意において下記の辺野古新基地の撤回
を求める抗議声明を発し、沖縄教区への謝罪と合同のとらえなおしと実質化への取り組みを再開することを
決議する。その具体的作業の責任は第40総会期常議員会が負うものとする」というものです。その提案理由
の中にY牧師はこのように書いているところがあります。<教会とは、「世にキリストを証しする」ものであ
り、「キリストの体」だからである。この時代と社会の、一体どこにキリストがおられ、誰と共に呻いておら
れるのかを、悩みながら探り、歩みを共にするのが教会の使命である>と。私はこのY牧師の一文に共感し
ました。ただ私たちがそのようにイエスに従ってこの世の現実を生きていくときには、必ず困難や苦難が伴
うことを忘れてはならないと思います。それ故の不安や恐れが私たちを襲うに違いありません。或は、何故
世の中はこんなにおかしいのか、政治も何もかもなってやしないと嘆くかもしれません。
・その時に、私たちはヨハネの告別説教の最後のイエスの言葉を想い起したいと思います。<これらのこと
を話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しか
し、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている>(16:23)。
・聖霊を与えられて、イエスを主と告白しつつ、互に愛し合いなさいというイエスの掟を大切に、今もイエス
が共に歩まれれている低みに立つ人々に寄り添い、イエスに信頼して歩みを起していきたいと願います。