なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(406)

     船越通信、癸苅娃供   。横娃隠糠3月31日   北村慈郎


・24日は客員のNさんが、現在生活しています東京から関西方面の実家に帰ることになり、

船越教会での礼拝はこの日が最後になりました。Oさんも、ご子息が横須賀の高校に3年間在学中、船越教

会の礼拝に出席してくれましたが、ご子息が大学入学で寮生活をすることになり、4月からは宇部での生

活になり、去る日曜日の礼拝後にお別れをしたばかりです。二人共こちらに来るときには、船越教会の礼

拝に出て下さるとおっしゃっていますが、それでも住まいが遠くになりますので、お別れの寂しさを感じ

ざるを得ません。お二人のこれからの歩みの上に主の導きをお祈りいたします。


・24日の日には、私は午後6時から始まる神戸での「沖縄から米軍基地撤去を求め、教団『合同のとらえ

なおし』をすすめる連絡会」(もとすす)の全国集会に参加するために、礼拝後の懇談の時を早めに失礼

して、京急田浦からJR新横浜まで行き、新幹線に乗ることになっていました。Nさんとは船越教会を一緒

に出て、京急田浦から横浜まで一緒し、横浜で別れました。


・24日(日)午後2時14分新横浜発の新幹線のぞみで新神戸まで行き、新神戸から地下鉄で三宮に出て、

会場のホテルまでタクシーで行き、午後5時過ぎには着きました。今回のもとすす全国集会は、2019年が1

969年の沖縄キリスト教団と日本基督教団の合同からちょうど50年に当たりますので、「合同50年に当

たって~その歴史を検証する~」というテーマで開催しました。この集会の案内呼びかけ文は私が書きま

したので、下記に転記します。


・「昨年12月14日から始まった辺野古の海への土砂投入には強い怒りを覚えます。その怒りを皆様も、そ

れぞれの形で表しておられることと思います。一方、本年2019年は、沖縄キリスト教団と日本基督教団

69年合同から50年になります。2002年の第33回/「合同」後18回教団総会における名称変更議案他合同の

とらえなおし関連議案全ての審議未了廃案と、それを契機とした「教団との間に距離をおく」沖縄教区の

決断からも、17年が経とうとしています。わたしたちのつくり出している状況は、「沖縄から米軍基地撤

去を求め、教団『合同のとらえなおし』をすすめる」ということからすれば、事柄の進展と言うよりは後

退かも知れませんが、それでも諦めずに課題を担い続けたいと願っています。/つきましては、この50年

の歴史の検証と今後の歩みへの模索を共有したいと思い、「合同50年にあたって~その歴史を検証する

~」というテーマで全国集会を設定しました。奮って参加くださいますよう、ご案内申し上げます」。


・参加者は約20名でした。歴史の振り返りはTさんが、発題は私がしました。Tさんは「合同」問題の主な

資料を用意してくださり、沖縄キリスト教団(沖縄教区)に対してヤマトの日本基督教団に主体性・当事

者性が希薄乃至は欠落していることが、「合同」問題を自分自身の問題として担い得ていない原因がある

という趣旨のことを資料に基づいて話されました。沖縄教区は、2002年の第33回教団総会で、沖縄教区提

案の名称変更議案はじめ「合同」問題関連の全ての議案が、時間切れ審議未了廃案以来、日本基督教団

距離を置いていますが、その後自らの在り方を問うています。沖縄における将来教会の在り方や「合同教

会」の在り方をです。ヤマトの側の日本基督教団の側は、「合同」問題を今も継続して担う努力をしてい

る教区や有志や個人はいますが、教団として公式的には「合同」問題は既に終わっています。私は発題

で、「合同」問題の歴史を振り返り、教団においてこの問題が頓挫したのは、1941年の合同を総括しない

まま、宣教論・教会論の違いを突き合せずに、そのままにして、60年合同と「合同のとらえなおしと実質

化」進めたことが、結果的に「合同」問題が日本基督教団において頓挫せざるを得なかったのではないか

ということを中心に話しました。だとすれば、これから為すべきことは、沖縄の構造的な差別をヤマトの

側から問うことと共に、日本基督教団としての宣教論・教会論、「合同教会」の在り方をヤマトの側から

問うことによって、沖縄と沖縄の教会(沖縄キリスト教団=沖縄教区)との連帯を厳しくはありますが、

再構築していくことではないかと思われます。そのことを「もとすす」は諦めずに担い続けていきたいと

いう趣旨のことを話しました。協議の中で、兵庫教区の沖縄交流委員の一人で比較的若いT教会の担任教

師の人が、沖縄から話を聞き、学ぶという集まりではなく、沖縄からの問いにヤマトの私たちはどう応え

るのかという、自らの足元を問う集会を開き、その集会に出て「悲しみながら立ち去る」人がいるとすれ

ば、それが意味ある事ではないか。「悲しみながら立ち去る」のは、自分自身が問われるとうことである

から、そういう集会を繰り返し開いて、そこに人を招きくことも大切なのではないかという趣旨の発言を

しました。面白い発想に感心しました。集会は25日(月)午後3時に終え、午後7時過ぎに私は鶴巻に帰っ

てきました。


・28日(木)は連れ合いの抗がん剤投与の日で病院に行きました。この日基地小が午後4時半から高座

渋谷教会であり、20分遅れで病院から駆けつけました。