なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(28)

     「断食」マタイ6:16-18、2019年3月24日(日)船越教会礼拝説教


・今日のマタイによる福音書の6章16-18節は、施しと祈りに続いて、イエスの時代の敬虔な信仰者の守る

べき義務の一つでありました断食についてのイエスの教えであります。


・私は今まで断食については殆ど考えたことも、実際に実践したこともありません。またキリスト教信仰

で断食が問題になることは、私たちの周りでは殆どありません。日常生活の中では断食は、健康法の一つ

としてか、痩せるためとか、或いはハンガー・ストライキのような命を掛けた抗議行動の一環として注目

されることはあります。もう大分前に健康法としての断食道場がブームだったときに、断食をしていた人

が亡くなったという事件が起こったことがありました。


・最近ではイスラム教のラマダンでイスラム教徒が断食をすることが知られるようになりました。私たち

の中で断食が問題になるのは、そのくらいでしょうか。


・しかし、聖書の中では、


・全面的な依存と委託の態度で神に向かおうとするとき、断食がなされています(ダニ9:3、エズラ8:21

)。たとえば、困難な仕事に着手したり(士師20:26;エス4:16)、過ちの赦しを願ったり(王上21:2

7)、病気の回復を求めたり(サム下12:16,22)、寡婦が夫の喪に服したり(ユデ8:6、ルカ2:37)、だれ

かの葬式に際し悲しみを表したり(サム上31:13,サム下1:12)するとき、また国家の不幸を嘆いたり(サ

ム上7:6、サム下1:12、バル1:5、セカ8:19)、災いの終わりを願ったり(ヨエ2:12-17、ユデ4:9-13)、

神の光に心を開いたり(ダニ10:12)、使命達成に必要な恵みを待望したり(出34:28;ダニ9:3)すると

きなどであります。


・断食をおこなう機会と動機は、このようにさまざまでありますが、いずれの場合にも、神の働きを受入

れて神の現存のなかに身を置くために、信仰をもって謙遜な態度を保つことが要求されます。


・イエスも荒野の誘惑において40日間断食をされたと言われています。


・今日のマタイによる福音書6章16-18節では、イエスの教えとして、人に見せびらかす断食ではなく、断

食をする時は、隠れている神に見ていただくためにしなさいと言われています。


・ですから、このイエスの教えは、断食を否定しているのではなく、自分は敬虔な人間ですよと、人に見

られるための断食が否定されているのであります。断食そのものは否定されていません。


・人に見せびらかす断食は、おそらく当時のファリサイ派の人たちのしている断食を指していわれている

と思われます。ファリサイ派の人々は、週にに2回断食を義務としていましたので、彼らが断食をすると

きには、ここでイエスによって否定されているような、人に見せびらかす断食をしていたのでしょう。

人々はそういうファリサイ派の人たちの断食する姿をよく見て、知っていましたので、断食に関するイエ

スの教えもよく分かったと思われます。


・イエスはそういうファリサイ派の人たちの、人に見せびらかす断食を批判することによって、断食の問

題は自分の問題で、人がどうこうということでも、人からどう見られるかということでもないのだ、と

おっしゃっているのです。断食をするならば、その断食は、自分自身が神さまとの関わりにおいてどうあ

るのかという、自分自身の問題であるというのです。


・「隠れている神に見ていただくために」という言い方によって、神と自分との関係に焦点を当てている

のです。ギラードという人はこのように言っています。「神だけにしか知られない断食は、神に対する希

望の純粋な表れとなる。そしてこのような謙遜な断食は、隠れたところで見かつ働いている神に認めら

れ、断食を実践する者の心を内的な義の世界に導くであろう」と。


・「内的な義の世界」とは、神さまと自分が深く、強く結ばれていて、その関係を隔てるものがないと思

えるほど一つになっている様をいいます。神に愛され、生かされ、支えられて今ここに在る自分を、心か

ら喜び、感謝し、神を讃美する、そういう神との関係において満たされているということです。


・皆さんは、こういう自分の「内的な義の関係」について、どのように思われるでしょうか。また、日々

の生活の中で、この「内的な義の関係」を大切にして、どのような努力をされているでしょうか。私自身

を振り返って考えてみますと、そのことへの配慮は、日常の生活の中で余りしていません。たまたま私は

牧師で毎日曜毎に礼拝説教を担当しています関係で、聖書と格闘する時間を持たざるを得ません。その時

は必然的に自分の「内的な義の関係」も問われます。ですから、私にとりましては、努力してそのための

時間をとって、自分の神との関係、「内的な義の関係」を確認するというのではありません。仕方なくと

言うか、強いられた恩寵としてと言うか、説教の準備をするために、その時には当然自分の「内的な義の

関係」が問われざるを得ないということです。そういう形で、自分と神との関係の確認のための時間を

持っているということです。


・さて、滝沢克己さんは、マタイ福音書の講解の中で、この断食の箇所を含め6章34節までのところに、

「人間の座」という表題をつけています。「人間の座」とは、座布団に座るように、私たちが何を座とし

て生きているかということです。落語のテレビ番組、笑点を見た方はご存知のように、司会者が問題を出

し、何人かの落語家が答える大喜利というのがあります。司会者の判断で、その答えがよければ、座布団

を一つもらえるというものです。よい答えを沢山出す人には座布団が積み上がって、その上に座るわけで

す。そうでない人の場合は、座布団を取られてしまいます。「人間の座」とは、私たちがどういう座布団

に座るかということです。自分という座布団なのか。お金という座布団なのか。権力という座布団なの

か。それとも世間体という座布団なのか。そういことです。


・その『人間の座』の(1)が「断食について」なのです。私は滝沢さんが言われる「人間の座」を「人

間の軸」と考えています。


・通常人間の座あるいは人間の軸は、「自分自身」にあると、私たちは考えているのではないでしょう

か。ですから、その自分がぐらついてどうにもならなくなると、もう生きていけないということになりま

す。場合によっては自らの命を自ら断つということも起こり得ます。


・しかし、断食というのは、そもそも食を断つということですから、自分を自分で殺すということです。

つまり欲望がある私たちの肉体は、食うことによって、その肉体を保持するわけですが、食を断つという

ことは肉体の自然からすると、逆になります。つまり自分の死を意味します。自分が自分の中心であるこ

とを放棄することです。


・断食によって自分自身を棄てることによって、隠れたところで、隠れたところを見ていてくださる、隠

れたところにいます神との絶対的な繋がりに、人は入れられるというのです。断食を通して神と自分の関

係に全重心がかかる。「だから、断食というのは、元々の意味は、人の生命というものは、人間から始ま

るものではないと。食べ物というのは、人間の、わたしの、所有物ではないということです」(滝沢)。


・「だから、人間のわたし、自己というのは、断ち切られている。そこが隠れたところですから、そこに

生きているということ、生命そのものが断たれているところに生命の始めがあるのだということ、生命は

自分のものではないということですから、これは感謝すべきこと、喜ぶべきこと。これは頭に油を塗り、

顔を洗って、讃歌を歌うべきことなのです」(同上)


・「隠れたところにいます神の御心によって生まれてくるのです。だからそこには光が闇に照るというこ

とが、あらゆる意味であるのです」(同上)。


・闇を作るのは私たち人間です。野の花、空の鳥は自ら闇をつくりだしません。与えられた第一の自然と

いう座布団の上に座って素直です。田んぼのあぜ道に咲く名も知らない小さな草花を、そこに立ち止まっ

て、じっとみながら、所与の生、与えられ命の持つ美しさ、素晴らしさを、私は感じることがあります。

以前国会前で辺野古新基地建設反対の座り込みをしていた時に、銀杏並木の道路ですが、まだ生まれてま

もないと思える小雀が、銀杏の下の藪の中から顔を出したことがあります。その雀のそぶりを見ていたと

きにも、命の美しさ、すばらしさを感じたことがあります。


・第二の自然と言われるこの人間社会は、闇で満ち満ちています。その中に生きる私たちは、何時しか闇

の子になっているのではないでしょうか。ですから、断食が必要になるのでしょう。意識してそのような

機会、時間を持たないと、本来私たち人間が座るべき「人間の座」、持つべき「人間の軸」を見失って、

あらぬ場で生きて行かざるを得ないということになるからです。


・しかし、第二の自然である人間社会の闇の世界からすれば、隠れたところいる神の御心という光に照ら

されることによって、本来の「人間の座」、「人間の軸」を私たちは取り戻すことができるのです。


ヨハネによる福音書のプロローグ、ロゴス賛歌によれば、「光の方が先です。はじめに言葉がある。そ

れは神の御心で、この言葉によって成らないものは、成りたるものの中で一つもないというのですから、

その神の御心によって隠れたところにイエスが生まれ出たということは、本当に光が先で、それでイエス

というその姿、闇の中に光が、目に見える光が灯ったということです」(滝沢)。


・イエスは「神の独り子」として、闇の中の目の見える光として、私たちの所に来てくださった方なので

す。この世の闇の世界では、私たちはお互い同士敵対関係に置かれています。しかし、隠れたところにお

われる方の御心によって、闇の中の光であるイエスに連なる者は、第二の自然であるこの人間社会も、隠

れたものが現れるように、第一の自然のように見えるのではないでしょか。ある人は、隠れたところにお

られる神の御心のもとで「一人になるということは、全世界が友達になる始まりです」(滝沢)と言って

います。


・断食はしなくとも、今日の聖書の箇所が語っている断食がめざした、闇のこの世のから一歩退き、隠れ

たところにおられる方の御心のもとにっ自らを置く時を持つことは、大切ではないでしょうか。この礼拝

もそのような時の一つだと思いますが、闇の中に輝く光を見失わないで、一日一生を大切に生きていきた

いと思います。