なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(26)

   「施しをするとき」 マタイ6:1-4、 2019年3月10日(日)船越教会礼拝説教


・無心な幼い子供たちにはほとんど関係ないことかもしれませんが、大人には大変大きな誘惑、落とし穴

があります。そしてその誘惑、落とし穴に私たちははまり易いのです。それはどういう誘惑、落とし穴

かといいますと、偽善という誘惑、落とし穴です。


・マタイによる福音書の6章1節から18節までは、主に私たちの中にある偽善を戒めているところです。


・6章1節から18節を挟んだマタイによる福音書の前後の箇所には、何々してはならない、とか、

何々しなさいという戒めの教えがいくつも出ています。新共同訳聖書のタイトルを見ていただいても分か

りますように、「腹を立ててはならない」(5:21-26)、「姦淫してはならない」(5:27-30)、「離縁して

はならない」(5:31-32)、「誓ってはならない」(5:33-37)、「復讐してはならない」(5:38-42)、

「敵を愛しなさい」(5:43-48)と5章では、戒めの教えが続いています。6章19節以下にも、「天に宝を

積みなさい」(6:19-21)、「思い悩むな」(6:25-34)、「人を裁くな」(7:1-6)、「求めなさい」(7:7-1

2)というようにです。


・ところが、6章1節から18節までには、偽善者のようになってはならないということが言われています。

エスの時代のユダヤ人たちには、神を信じるその信仰の表れとして大変大事にしていた三つのことがあ

りました。それが施しと祈りと断食です。福音書に出てくるファリサイ派の人たちは、この施しと祈りと

断食を立派に実行していました。そしてそのことを人々にみせびらかしていいたようです。6章1節から18

節までにはこう言われています。


・「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の

前でラッパを吹き鳴らしてはならない」(6:2)。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであっては

ならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」(6:5)。「断

食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食している

のを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」(6:16)。


・マタイによる福音書では、23章1節以下で律法学者たちとファリサイ派の人々を指して、イエスは「あ

なたたち偽善者は不幸だ」と言っていますので、ここでも多分律法学者たちやファリサイ派の人たちを思

い浮かべながら偽善者と言っていると思われます。


・偽善者とイエスに言われている律法学者たち、ファリサイ派の人たちは、大変まじめで立派な人たち

で、民衆から尊敬されていました。どちらかといいますと、サドカイ派の祭司たちと比べたら、ずっと神

を信じる人間としてまじめでした。


・偽善者といっても、すべきことをしないで、したように見せるとか、取ったものを、取らないことにす

るとか、そういうことではありません。ファリサイ派の人たちの多くは、非常に敬虔で、ある意味で正直

な人たちでした。そして熱心でした。律法を守って神に仕えようと真剣でしたし、そのためにはどんな苦

労もいとわないという人たちでした。


・それでも、それが、いつのまにか、自分たちのしていることに、なにか不自然な誇りを感じるようにな

るのです。自分たちは良いことをしているという、神に仕えているのだという意識が大事になってくるわ

けです。他の人よりも自分たちの方が優れているというような自意識が、自分たちのしていることについ

て起こってきます。


・そうすると自分と神との関係がどこかに消えていってしまいます。自分の熱心さ、誇りを認めてくれる

人を見い出したくなってしまいます。自意識の世界の罠に捕らえられてしまうのです。


・偽善者のようになるな、というイエスの教えは、自分を忘れて、無心に神を信じ、イエスにしたがって

歩みなさいということではないでしょうか。それが、神に造られた本物の人間の姿はないかというので

す。偽善者とは、「俳優」に由来する語で、俳優とはある人の役柄を演じる人です。その演じる人と自分

とは違います。演じる人は仮の自分の姿です。その演技を上手にして、見る人から素晴らしい演技だと評

価されることを期待して、演じているのではないかと思います。俳優のように自分を偽って人に見せるの

ではなく、神に創造されたありのままの自分で、人と関わりなさい。それが偽善者のようになるな、とい

うイエスの教えではないでしょうか。そういう本物の信仰者は隠れて存在するのというのです。


・「なんでも鑑定団」というテレビ番組があります。骨董や絵を鑑定する番組ですが、連れ合いがこの番

組が大好きで、私も時々観ます。偽物か本物かの判定がなかなか難しいのです。その意外性が受けている

のではないかと思います。しかし、鑑定する人はそれを見分けます。


・人は見せかけの信仰に騙されて、立派なクリスチャンと言ってくれるかも知れませんが、神は本物の信

仰を見分けるということでしょう。本物と偽物を見分けることができるのは、神以外にないということな

のかも知れません。


・自然の樹木や草花、路傍の石のように、作為の無いありのままの存在に、私たちは心を打たれます。幼

子もそうです。幼子の作為の無い自然な振る舞いを見ていると、心が癒されます。それだけ私たちの日常

の生活は、本来の自分を生きることができず、見せかけの自分を演じ分けて、演技して生きているのでは

ないでしょうか。本物や真実からはかけ離れた偽善の世界で、俳優のように求められる役柄を演じ、それ

に対する見返りを求めて生きているのです。


・今日のマタイのイエスの言葉は、施しに関わるそのような偽善を問題にしています。ここでは、「だか

ら、あなたが施しをするときには」を言われていますので、施しという行為は否定されていません。「施

しをする」ということが前提になっています。施しは当時のユダヤ教徒にとって、先ほども言いましたよ

うに、祈りと断食と共に、大変大切な行いでした。ここで重要なことは施しを勧めながらそれを徹底的に

隠すことを求めている点です。


・「施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(3節)と。<愛であれその

他の信仰的実践であれ、それは人に見せるための行為でもなければ、自己満足や自惚れを生む、自分に見

せるためのものでもありません。善行(善き行い)という評価があるから行うのでもありません。あらゆ

る人目を徹底的に排除して、それから自由なところで行うとき、信仰の実践は意図的行為でなく、ごく自

然な行為となります。行う者も評価を下さないことになります。それを徹底することによって、これは善

行だからするとか、報いが期待されるからするという卑しい思いから自由になれます。こうして人にほめ

られることも神からの見返りも計算にいれないときに、人は神との正しい交わりに入る>(新共同訳注解

による)と、このマタイの箇所は語っているように思われます。


・さて、ここでは施しが問題になっていますが、そもそも聖書では施しについて、どのように考えられて

いるのでしょうか。先ずは、貧しい者に食物や着物を与える個人の善意による施しを意味していると考え

られます。しかし、それだけではなく、社会的な施しという面もあります。<たとえば、7年目に土地を

耕さずに、それを貧困者のために残して置く>(出エ23:10-11)とか、<ぶどう畑や麦畑に入ることを許

して、その実を食べさせること>(申命記23:24-25)、また<収穫の一部を貧しい者のために残すこと>

申命記24:19-22)などが、社会的な施しを意味すると思われます。施しというと、ある程度豊かな人が

貧しい人に個人的にお金や自分の持ち物の一部を与える行為を意味しますが、聖書では社会的な正義も施

しに考えられているのです。


・平良修さんが『27度線の南から~沖縄キリスト者の証言~』の中で、沖縄の戦後の教会について書いて

いるところで、このように言っています。≪牧師皆無に近い状態の中から、信徒だけで教会を形成してい

くという、かの初代教会をほうふつさせる伝道意欲と、戦後間もないころのいわゆる“キリスト教ブー

ム”とが相まって、教勢はいちじるしく進展した。戦前の教会を知る者の目には、戦後の教勢の伸びは驚

きであったにちがいない。しかし、その教会も信徒の数をふやすことにのみ汲々とする、保身的内向きの

体質を持つ教会でしかなかった。とはいえ、社会に対して全く閉ざされた教会であったわけではない。し

かしその場合でも、政治の貧困から生じる社会問題に救済事業的にかかわるという域を出なかった。困窮

者に隣人愛による救済を差し伸べることはしたのであるが、困窮者を出さないために、水源地つまり政治

そのものを浄化するという、よい大規模な隣人愛に生きることができなかった>(323-324頁)と。


・貧しい者に個人的な施しをすることも、現実の社会が貧しい者を生み出している限り、必用なことで

しょうが、それ以上にこの社会が社会的正義を貫くように、政治を変えていく行動も必要です。そのよう

な、平良修さんが言うところの「大規模な隣人愛」を含めて、「施しをするときには、右の手のすること

を左の手に知らせてはならない」(3節)とのイエスの言葉を心に留めて、偽善的な行為への誘惑から自由

にされて、イエスに倣って、神との真実な交わりを他者との関係の中で生きていきたいと思います。