黙想と祈りの夕べ通信(440)復刻版を掲載します。2008年3月のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(440[-22]2008・3・2発行)復刻版
教区総会での按手礼志願者とのやり取りで、一人の学校で働く志願者が未受洗者の中高生に自分は牧師として
伝道したいという趣旨の発言をしました。その発言に対してフロアーから一人の方が、子どもたちを未受洗者と
いう枠組みで見ず、謙虚に子どもたちの声を聞いてもらいたいという要望がありました。教区総会の前日には寿
でボランティア講座があり、私は炊き出しから参加しました。野菜をきざんでいた時に、大学4年生と5歳年下の
二人の高校生が私と同じ作業をしていました。その作業の間に大学生の子が年下の高校生に一生懸命キリスト教
の話をしていました。人間は罪人だけど、悔い改めて洗礼を受けるとイエスさまによって救われて、天国に行く
ことができるというように、通俗的なキリスト教のドグマを真面目に語っているのです。教区総会での一人の按
手礼志願者と寿での高校生にキリスト教を語るボランティアの人とに、私は共通したものを感じました。キリス
ト教は良いもので、先に信じた者としてそれをまだ信じていない人に勧めるというあり方です。宣教とはそうい
うことなのでしょうか。木田元と竹内敏晴の対談集『待つしかない』の中で、日本のキリスト教に対して、十字
架のない安易な神信仰が批判されています。今は特にレンとの時期です。私たちにとってイエスの十字架が何を
意味するのか静に思いめぐらしたいものです。
上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今日はKさんに案内されて大磯のエリザベスサン
ダースホームを見学してきた。澤田美喜さんは混血の孤児を助けたが、隠れキリシタンの彫刻や絵や十字架など
の遺品を蒐集された。それを見せてもらった。隠れキリシタンが300年位クリスチャンとして続けてきたのは大変
だったろう。この黙想と祈りの夕べは一時間、レントは40日間、300年は10万日である。讃美によって力づけられ
るが、それも出来ず、マリア像や絵を頼りに10万日を過ごしてきたのであろう。辛かったであろう。絵や像によ
る無言の讃美もあるのかも知れない。絵や像を偶像として排除するところがプロテスタントにはあるが、色々な
讃美があるのでないかと思わされた。
もう一人の方の発言がありました。隠れキリシタンの遺品を集めた澤田美喜記念館に教会の方々と一緒に訪れ
た。残された一つ一つの物の背後には壮絶な人生を生きぬいた多くの人々がいたことを感じて圧倒された。澤田
さんも、エリザベスサンダースホーム(戦後の混血孤児のための施設)を立ち上げ運営していく中で、数々の困
難を乗り越えなければならなかった。その時、隠れキリシタンたちが残した像の前で対話し、祈っていたという。
想像もつかないほどの困難を前にして祈りをささげている人々がいた。そして今もいる。人間の犯す罪の深さと
それを乗り越えていく祈り人たちの強さを思った。
さらに一人の方の発言がありました。今日は学校で礼拝当番になり話しをしてきた。15-20分話すことは大変
である。そのために聖書を読み、自分自身も問われるし、話し終わった後、語ったことと自分自身の日常が違っ
ていて自己嫌悪に陥るからである。今日はペテロの否認のところを話した。激しいやり取りがペテロとイエスの
間にあったが、二人の関係が切れなかった。この関係が切れないことの大切さを思う。イエス・神との関係を自
分から切らないとともに、自分と他者との関係も切らないようにやっていくことが大事なことではないか。
「神の契約」 3月2日
神は私たちと契約を結ばれます。契約(カヴェナント)という単語は、「一緒になる」という意味です、神は
私たちと一緒になることを望んでおられます。ヘブル語聖書の物語の多くで、神は、私たちを敵から守り、危険
を防ぎ、私たちを自由へと導かれる神として現れます。神は、「私たちのための神」なのです。イエスが来られ
る時、契約の新しい次元が明らかにされます。イエスにおいて、神は私たちと同じように生まれ、成熟し、生き、
苦しみを受け、そして死にます。神は「私たちと共にある神」です。去って行かれる時、イエスは聖霊を約束さ
れました。聖霊において、神は契約の本当の深みを明らかにされます。神は、私たちの息のように私たちの近く
にいたいと望まれます。神は、私たちの内で息をしようとしておられます。私たちの言葉、思い、行いのすべて
が、神によって息を吹き込まれたものとなるように。神は「私たちの内にある神」です。このように、神の契約
は、神がいかに私たちを愛しておられるかを開き示してくれます。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)